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弟とともに出世の階段を駆け上った豊臣秀吉「家紋の変遷」から見えてくる"成り上がり"の半生を辿る

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出世の階段を駆け上った秀吉の「家紋」の変遷を辿ります(写真:tetsu/PIXTA)
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それ以前は「木下」という名字を名乗っていたが、いつどのようにして木下を名乗るようになったのかは定かでない。

『太閤素性記』では、秀吉の父を「木下弥右衛門」と記しており、最初から木下名字だったかのようにしている。しかし、当時は誰もが名字を名乗っていたわけではなく、秀吉の出自も不明点が多かったので、最初から木下名字だったという証拠にはならない。

秀吉の名が出てきた最初の確かな史料は、永禄8年(1565)11月2日付の坪内利定宛の知行安堵状である。「木下藤吉郎秀吉」と副署されており、既に織田家臣団の中で確かな地位にあったとみられる。

秀吉の妻・禰々(寧々)の実家が木下氏だったので、結婚後に自分も木下名字を名乗ったとみられる。

最初は妻の実家の「沢瀉紋」を使用

木下氏は「沢瀉」を家紋として用いていたので、木下時代の秀吉も沢瀉紋を使用していた可能性が高い。

(出所:『家紋で読み解く戦国時代』より)

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沢瀉は水田やため池などに自生するオモダカ科の多年草で、夏場に白い花を咲かせる。葉が鏃(やじり/矢尻)のように尖っていることから、「勝ち草」とも呼ばれた。こうした特徴から、武家が好んで用いていた。

沢瀉紋は咲いていない花と葉が水面から立っている「立ち沢瀉」が基本で、左右対称に抱き合わせた「抱き沢瀉」などもある。江戸時代の木下氏は、「抱き沢瀉」の葉と茎の部分を簡略化した「木下沢瀉」を家紋として使用していた。

秀吉子飼いの武将である福島正則も、「沢瀉」の家紋を使用していた。正則の母は秀吉の母・大政所(天瑞院殿)の妹という縁もあり、沢瀉紋を秀吉からもらったと考えられる。「立ち沢瀉」に2つの咲いた花を加えており、「福島沢瀉」と呼ばれる。

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【名字を「羽柴」に改めると】

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