それでも「百貨店」にすがり続けた理由
これだけの失敗が重なりながら、なぜ百貨店への期待は続いたのか。その背景には、出店側だけでなく、受け入れる地元側にも共通した認識があった。
1969〜1972年の大型店集中出店時、地元では大きな反対運動がなかったとされている。「ある程度の大型店があった方が町の発展になる」という考え方が共有されていたのだ(『販売革新』1978年)。そごう出店時も、「駅前の再開発計画が発表されると、そごうならきっと期待に応えて出店してくれるだろうと、むこうのほうから自然な声が聞かれる」状況だったという(『そごうの西武大包囲戦略』渡辺一雄、光文社、1988年5月)。
大丸撤退時には、甲州街道沿いの商店街は「再活性化の夢が破れた」と嘆く声が記録されている(『総合食品』1985年)。ビルオーナーの忠実屋はいったん空きスペースをギャラリー「サイドウォーク」としてオープンしたが、2年後に作られたのはファッションビル「ファム」だった。
「郊外百貨店」という位置づけで、「市内には数少ないギャラリーとして残してほしい」との声があったにもかかわらず、ファムにギャラリー部分は残されなかった。なぜそこまで百貨店業態にこだわったのか。「大型店があれば街が発展する」という信仰が、出店する側にも受け入れる側にも抜けなかったからだろう。



















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