「立川の半分しか売れない街」だったのに…6つも百貨店があった街・八王子の"高すぎる自己評価"が招いた悲惨な顛末

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しかし実態は大きく異なった。「昭和50年には八王子は50万都市になる」と言われていたが、人口抑制政策がとられたことにより、1978年(昭和53年)現在で34万人にとどまった(『販売革新』1978年)。

百貨店が見ていたのは現在の消費力ではなく、八王子の将来性だったのだ。しかしそんな将来は、計画通りには来なかった。

さらに重なる失敗要因

「消費センター」という誤認と人口予測の外れに加え、需要側・供給側の両面から失敗要因が積み重なり、そごう閉店まで繰り返された。

需要側の問題から見ていこう。百貨店も量販店も業態は違えど売っているものは似たり寄ったりで、「百貨店も量販店もパンストが同じ250円」「八王子はお客にとってバーゲン市場だった。いいものを買おうという意欲が薄れてしまった」と指摘されていた(『販売革新』1978年)。

また、モータリゼーションの発達で郊外客は駐車場の弱い駅前より立川・相模原の大型店に向かっていたという(同)。

さらに、そごうが出店した翌年の1984年時点で、すでに市民の3分の1が衣料品を市外で購入しており(八王子市基本構想・基本計画 昭和59〜63年度)、市内の大学生に至っては衣料品・スポーツ用品の購入先が市外7割強で、新宿・渋谷・吉祥寺での購入割合が高かった(『不動産研究』日本不動産研究所、1993年)と明らかになっている。

供給側にも問題があった。1985年に撤退した大丸は、大阪・梅田店の再建のために八王子店をスクラップ化し、本体の経営悪化が撤退を加速させた(『実業界』1985年)。そごうは黒字の子会社・関連企業が財務面で支え続ける仕組みを持っていたため赤字でも存続できたが、2000年のそごう経営破綻はその連鎖構造が崩壊したことによるものだ(『販売革新』1985年)。

長崎屋の跡地はメガドンキに
長崎屋の跡地はメガドンキに。駅前の人流を生んでいる(写真:筆者撮影)
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