横浜駅西口「砂利置き場から一大繁華街へ」の70年 放置されていた「荒れ地」が変貌、次の再開発も始動
横浜市も同時に交渉に入ったが、買収に成功したのは相鉄だった。市の都市計画に協力することを条件に、1952年11月、西口駅前の2万4688平米(約7500坪)を手に入れた。横浜市を上回る金額を提示したのに加え、米国では行政よりも鉄道会社を上に見る風潮があったことも相鉄に有利に働いた。
この土地を狙っていたのは相鉄と横浜市だけではなかった。誰かといえば、相鉄と同じく西口側に駅を持つ東急の五島慶太である。腹心の安藤楢六(ならろく)を小田急の社長に据え、独立後の小田急にも影響力を残していた五島は、小田急を通じて相鉄株の買い占めに走ったのだ。
これに怒り心頭なのが川又である。かつて自分を東急から追いやった五島が、今度は自分が築き上げつつある相鉄という城を乗っ取ろうとしている。結局、この乗っ取り工作は相鉄側の新株発行(第三者割当増資)と公正取引委員会の裁定により、辛くも防がれた。
東京に流れる人々を横浜に「せき止める」
こうして西口開発は相鉄主導となり、計画は3期に分けて進められることに。第1期は相鉄横浜駅舎、アーケード商店街(横浜駅名品街)などの建設。第2期は相鉄文化会館、第3期は百貨店を建設する構想となった。
だが、名品街のテナントは、伊勢佐木町、元町など横浜の商店街をまわって出店を募ったが、集まりが悪かった。なぜなら、横浜は東京との距離が近いため、当時は「横浜市内のみならず湘南・三浦各都市の高級購買力は横浜を素通りして東京に直結しており、横浜駅に商店街を建設しても発展しないだろう」(『横浜市史Ⅱ 第3巻下』)と言われていたのだ。
それでも川又は信じていた。横浜駅に一大繁華街をつくり、東京に流れている購買力を”ダム”のようにせき止めれば、勝機がある――いわば「西口ダム作戦」である。横浜市の人口は戦災で減少したものの、1951年には早くも100万都市の地位に返り咲いたことも自信になった。



















無料会員登録はこちら
ログインはこちら