トイレ休憩すら許されない…アメリカを蝕む「デジタル監獄」の過酷すぎる実態 自由の国で進行する「私的暴政」の正体
主人を持たない者たちは、非人格的に、合意のもとに、「対等の立場で」経済的関係を結んでいた。
しかし、近代の労使関係はこのパターンを変えた。産業革命後、雇用主と被雇用者は、当初は互いに対等の立場でいたかもしれない。だが、被雇用者はひとたび雇用契約書に署名した瞬間、雇用主との密接な関係に身を置くこととなり、起きているあいだの大半は自らの身体と時間の使い方を雇用主に支配されることとなった。
リンカンはこのことを完全には理解していなかった。彼はその代わりに、社会階級のサイクル・オブ・レイバー理論のようなものを信奉していた。
ミルウォーキーで彼が述べたように、「自由人が一生涯、労働者という身分に縛りつけられるなどということはない」。
むしろ「分別はあるが金のない新参労働者は、しばらくは賃金労働をしながら、自分自身の道具や土地を買うために蓄えを貯める。それからまたしばらくは自分のために働き、やがてまた別の新人を雇って手伝わせるのである」。
法学者のジョセフ・フィシュキンとウィリアム・フォーバスが指摘するように、リンカンはヨーマンを資本と労働の「複合体」、つまり完全な雇用主でも完全な被雇用者でもなく、両者の特徴を共有する存在として重んじた。
これにより、両者の利害には不調和がないように思われた。根本的で永続的な力の差がなければ、労働者と資本家は総じて友好的な立場で出会うことができるのである。
「服従か、飢えか」という「選択の自由」
しかし、歴史は、相対的に階級のない社会というリンカンの無邪気な夢を裏切った。
社会的な流動性は、それが本来のアメリカの理想であったとしても、完全に止まってしまったのである。
今日のアメリカの経済的優位性が消滅するのには平均6世代かかるという。
そして、労働者と雇用主が共存共栄するというリンカンのイメージとは裏腹に、彼が暗殺された後の数十年、金ぴか時代からニューディール時代にかけて、熾烈で時に暴力を伴う階級闘争が勃発した。
この歴史の逆転により、現代の「契約の自由」は、労働者の脆弱な立場を「自由」の証しに変える残酷なメカニズムとなっている。
雇用主の圧倒的な力に服従するか、さもなければ飢えと生活の破綻を選ぶかという「自由」しか、もはや労働者には残されていないのである。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら





















無料会員登録はこちら
ログインはこちら