トイレ休憩すら許されない…アメリカを蝕む「デジタル監獄」の過酷すぎる実態 自由の国で進行する「私的暴政」の正体
リンカンの「ウィスコンシン州農業協会演説」は、どう見ても偉大な奴隷解放者が演説するような格調高いものではなかった。
しかし、この秋のミルウォーキーでの演説は、おそらくアメリカの政治経済学を典型的に象徴するものとして語り継がれている。
リンカンはその演説で、雇用主と被雇用者のあいだには根本的で永続的な対立は生じないというアメリカ人の信念を鮮やかに表現した。
リンカンは最初に印象的な見解を述べた。「労働は主として人間が欲するものを供給する源である」と。
したがって、あらゆる物質的なものは労働に帰する、ということである。
その演説から10年以上も前に、彼はこの考えをさらに踏み込んだかたちで表明し、「善なるもののほとんどが労働によって生み出される以上、そうしたものはすべて当然のことながら、自らの労働によってそれを生み出した者のものである」と書いていた。
ご存じない読者は、これを書いたのがカール・マルクスであると勘違いするかもしれない。
しかし、実はこの基本的にリベラルな労働観を提唱していたのはリンカンであり、それは職人、農夫、技術者など、主人を持たずに働く人たちがいた産業革命前の時代にしっかりと植えつけられていたのである。
20世紀の歴史家リチャード・ホーフスタッターが述べたように、労働者の権利についてリンカンがこのように語ったとき、彼が言いたかったのは実は「所有する権利」であった。
リンカンの考えでは、「労働者」とは自らの土地を所有する農夫や自らの道具を所有する職人のことであった。
こうした所有者には、自らの労働の果実を受け取る当然の権利があるとリンカンは考えていたのである。
「契約の自由」という残酷な神話の下での隷従
しかし、自分以外の主人のために精を出して働く労働者の集団が拡大している場合はどうであろうか。そうした労働者を組織化する最も公正な方法とは何であったのか。
リンカンは階級差別が永遠に続くものとは考えていなかった。また、ある種の人びと(おそらく労働者の大多数)が、賃金と引き換えに他人のために一生働きつづけることになるなどとは想像もしなかった。
彼は、すでに本格的に進行していた産業革命の影響を完全に予見することはできなかった。機械の時代と規模の経済が、経済発展の初期段階で繁栄していたいわゆる「主人を持たない者たち」、つまり独立した職人や農夫をほぼ一掃してしまうことになろうとは。





















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