トイレ休憩すら許されない…アメリカを蝕む「デジタル監獄」の過酷すぎる実態 自由の国で進行する「私的暴政」の正体
ニュースを丹念に追えば、アリシア・フレミングのケースよりもはるかに恐ろしい話をいくつも目にするであろう。
「同僚」のロボットに殺された労働者、トイレ休憩がないためにオムツを着用させられた労働者、会社が運営するクリニックの医療従事者に職場で負ったケガの治療をしてもらえなかった労働者などの事例である。
こうしたケースのなかでも目立つものはそれなりにメディアで注目され、その原因となった虐待的な、あるいは怠慢な管理手法は、政府の取り締まりがどう見てもお粗末で罰則が軽いにせよ、しばしば違法とみなされている。
しかし、私がフレミングのケースを取り上げたのは、それがどこでもよく聞く話だったからである。
彼女の雇用主の行為は不当であり、最終的に彼女に損害を与えた。
しかし、それは人生を揺るがすようなものではなく、彼女が当局に苦情を申し立てるほどのことでもなかった。
実際、彼女の雇用主は法律の範囲内で行動していたのである。
リンカンの「自由労働」の理念が崩れ去った現代
プレカリティは、フレミングをはじめとする何千万もの賃金労働者が人生の大半を通じて経験する状況を特徴づけるものの一つである。
別の見方をすれば、それは強制の赤裸々な事例と言える。
つまり、雇用主が最大利潤を追求するために他人の時間の使い方を支配する力を持ち、たとえそれがその人の人生を完全に狂わせることになっても構わないということである。
この種の強制は、ほとんどの人、特に時給で働いている人たちが経験することである。
なぜこれほど明白に不公正な労働環境になってしまったのかを理解するには、アメリカの政治経済の発展にとってきわめて重要な瞬間にまでさかのぼる必要がある。
1859年9月、ウィスコンシン州農業協会に招かれたエイブラハム・リンカンは、州の年次品評会で演説を行った。
当時すでに共和党の寵児であり、ホワイトハウスへの道をひた走っていたリンカンは、国内最大の支持基盤である農民たちを前に演説する機会が得られたことを喜んでいた。
リンカンの典型的なスタイルとして、彼は自らの政治的立場や野心を控えめに見せながら、そのくせ自らを「政治家みたいなもの」と称する厚かましさも示した。





















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