職場いじめで幻聴が…追い詰めた上司の言葉とは 「お母さんは悪い人と入れ替わった」と打ち明ける娘を救った"母の愛"
春香:お母さんと一緒にごはんを食べました。
広岡:(つぶやくように)よかった。
「否定されない経験」が固い心をほどいていった
しかし、そこに至るまでは決して簡単ではなかったようです。
お母さんによると、春香さんはしばらく「お母さん」を直視することはありませんでした。廊下で鉢合わせると、体をこわばらせ、壁に寄って距離を取ることもあったといいます。
そのたびにお母さんは、「ごめんね、びっくりさせたね」と小さく声をかけ、すぐにその場を離れました。あくまで、追いかけない。問い詰めない。それだけを心がけたと話してくれました。
ある日の夕方、廊下の先でお母さんが洗濯物を畳んでいると、背後で気配がしました。ふと振り向くと、春香さんがドアの陰に半分隠れるように立っていました。目だけがこちらを追っているようでした。
「……そこにいるのは、本当にお母さん?」
かすれるような声で、春香さんが言いました。
「うん。お母さんだよ。でも、怖かったら無理しなくていいからね」
そう答えると、春香さんは黙ったまま数歩あとずさりし、部屋へ戻っていきました。
翌日、春香さんは玄関の棚に置かれていた自分宛てのメモを見つけました。
「お味噌汁、ここに置いておくね。食べられそうなときでいいから」
押しつけがましくない短い文章を見た瞬間、「これは母が書く字だ」と感じたといいます。しかし同時に、「でも、字なんて真似できる」と疑う気持ちも残りました。
翌朝、お母さんが食器を下げに行くと、空になった茶碗が静かに置かれていました。
「食べられたんだね、よかった……」
お母さんは声に出さず、ただ胸の前で手をぎゅっと握りしめたそうです。
ある日の深夜、珍しく春香さんが自分から声をかけてきました。
「……お母さん?」
「いるよ。どうしたの?」
「ううん……。なんでもない。ちょっと、声を聞きにきただけ」
お母さんはそれ以上踏み込まず、「そっか。おやすみ」とだけ返しました。
その短いやり取りが、春香さんの中では“確かめても攻撃されない”という確かな体験になったようです。
こうして、ほんの小さな接触と“否定されない経験”が積み重なり、春香さんの中で、「母への恐怖」がゆっくりとほどけていったようです。
来院する2、3日前のことだったといいます。
それまで自分の部屋で食べていた春香さんは、その日の夕食のとき、部屋から出てきて椅子に座り、恐る恐るお母さんのほうを見ました。視線が合った瞬間、ほんの少しだけ口角を上げ、すぐに視線を落とします。
お母さんは何も言わず、ご飯をよそった茶碗と温かい味噌汁を春香さんに差し出しました。会話は多くなかったそうですが、2人が分かち合ってきた“いつもの夕方”が、そこにあったといいます。
眠れない娘のそばに座り、手を握りながら服薬を見守り、日々寄り添い続けたことで、お母さんへの恐怖が少しずつ薄れていったのでしょう。その日の夕食は、母娘の関係が再び結び直された瞬間だったと思います。
その日の診察の最後に春香さんが言った言葉は、いまでも耳に残っています。
「お母さんは、本当はお母さんだったのかもしれません」
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