「駅前が廃墟化してる?」「人も歩いてない?」と思いきや…千葉にある「百貨店全滅タウン」が今も賑わう理由
興味深いのは、ニッケ自身も当初の百貨店業態(ダイエー系のいちかわプランタン)に固執せず、のちにGMS型へと軸足を移していった点である。業態よりも機能を優先し、駐車場、広域アクセス、滞在性といった要素を強化することで、生活拠点としての役割を拡張していった。
開発主体である日本毛織は、当時の構想について『住まいとまち(19)』(不動産流通近代化センター「住まいとまち」編集室.1991)にて、「分譲マンションにすれば短期的に大きな利益を上げられたが、市民との心の共有物をつくるという理念からSCを選んだ」と振り返っている。
川を越えれば東京という立地で、住宅開発が合理的とされた時代に、あえて“商業公園”を選んだという点は示唆的だ。また同社は「どうせ東京へ行くのだからという諦めではなく、市川市に都心にも誇れる何かを」とも述べている。
ここから読み取れるのは、ニッケが百貨店の代替というより、「東京前提社会」における市川の居場所を再定義しようとした施設だった可能性である。
百貨店はなぜ「必要なくなった」のか
結果として、市川市民の消費行動は明確に役割分担されていった。贈答品や「ハレ」の買い物は都心へ。日常の調達や家族で過ごす時間は、ニッケや駅前の実用的な施設へ。かつて百貨店が担っていた「ハレと日常の両立」という機能は、東京と郊外型ショッピングセンターへと分解され、再配置されたのである。
18年に東京外環自動車道が市川市まで開通したことで、三郷や幕張方面など郊外型商業施設へのアクセスも向上した。すでに鉄道で都心と直結していた市川は、車による広域移動も容易になり、購買行動はより広い選択肢の中から合理的に選ばれるようになった。
こうして見ると、ニッケコルトンプラザは百貨店を駆逐した存在ではない。百貨店が抱えていた機能のうち、滞在性や広域アクセスといった要素を引き受け、都市の消費構造を再編する装置として機能したにすぎない。
市川で起きたのは、商業の衰退ではない。東京を前提とした生活設計の中で、百貨店という業態が「必要なくなった」という構造的な変化だったのである。
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