開業時から「デパートとしての魅力に欠ける」「中途半端な大型店」と言われていた…千葉にある「百貨店が全滅した街」の本質要因
西武市川店が比較的早い段階でスーパー業態へと転換したことは、百貨店という形式がこの街で長期的に定着しなかったことを示す一つの事例といえる。背景にはグループ全体の業態再編もあったと考えられるが、結果として市川駅前「ハレ」よりも「利便性」を重視する商業へと重心を移していった。
こうした傾向は、現在の生活者の記憶とも重なる。行徳在住の男性に当時の買い物事情を尋ねると、「昔、母とバスで本八幡の長崎屋に行っていました。母は小岩の長崎屋にも行っていたみたいです。ハトのマークが懐かしいですね」と振り返った。
この証言は一例に過ぎない。ただ、昭和42年の行政調査でもすでに市民の購買が都心や市外へ流出していた事実を踏まえると、少なくとも市川では「地元百貨店を絶対視する文化」は強固ではなかった可能性がある。
百貨店の衰退は、消費意欲の低下によるものではなく、むしろ消費者の目が早くから東京と同じ水準にあり、「中途半端な存在」を許さなかった結果だったのかもしれない。
東京が近すぎた市川市
ここまで市川市の百貨店に対する、市民からの評価を詳しく見てきたが、比較対象とされた都内のデパートを訪れるには、鉄道についても見ていく必要がある。
市川市では、総武快速線の運行開始(72年)、都営新宿線の本八幡乗り入れ(89年)によって、都心との距離が急速に縮まった。
この鉄道網の完成は、市川を「東京の玄関口」として発展させた一方で、商業的には別の作用をもたらした。市川は、目的地ではなく、通過点として最適化された街になっていったのである。その結果、50年代から70年代にかけてオープンした、地元の百貨店への逆風はより強くなった。




















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