「せめて台湾出身の従軍看護婦がいたことを忘れないでほしい」 最後の従軍看護婦・廖淑霞さんの人生
「男は志願兵、女は従軍看護婦」の大号令の下、試験に合格したのは大変な名誉だった。そして「第1632部隊上海第173兵站病院」に配属と同時に、日本名「廖淑子」に改名。病院では空襲の中で負傷者の看護にあたりつつ、38式歩兵銃を手に持って軍事訓練も行った。
46年に台湾へ帰還を果たしたが、戦後の中国国民党政権下では、元日本兵や軍属に対し「敵である日本に協力した逆賊」と見なされた。「白色恐怖(テロ)時代」とも言われる厳しい政治体制が続き、廖さんたちは忸怩たる思いで耐え忍んだ。
時は流れ1990年代、台湾の民主化が進み、公式の場で自分の人生を明かして活動できるようになった。廖さんは思い切って、「従軍看護婦」の制服を再現した。当時と同じ紺色の布で仕立て上げた。腕に赤十字のマークを縫い付けるのも忘れなかった。
「日本人として日本のために働いた」忘却の中での奮闘
「私たちは日本人として祖国のために働いた。私たちの存在を認めてほしい」。その制服を着て、仲間たちと日本赤十字社や実質の日本の大使館に相当する交流協会はじめ関係各所に働きかけたが、戦後日本国籍を失っていたことや、1972年以降日本とは国交のない状況下での正式な交渉ルートもなく、壁にぶつかることが多かった。
そうした障壁は沖縄戦の慰霊の場でも如実に表れた。沖縄県糸満市の平和祈念公園内にある「平和の礎」に刻まれた台湾出身者の名前はわずか34人にとどまる。(編集注:当時の沖縄にどれくらいの人数の台湾出身者がいたのかは、記録が消失してしまって正確にはわからないが、民間人を含めて少なくとも2万人はいた、と言われている)
「あのとき沖縄には台湾出身者が数万人はいたはず。おかしいでしょ? 戦争はまだ終わっていない」。生前の廖さんは筆者にそう語っていた。
2000年、廖さんは日本政府からようやく給与を受け取ったが、わずか20万円だった。従軍看護婦時代の給与は軍事郵便貯金に積み立てられ、「家が建つほどの金額」だった。




















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