剱持さんは男3兄弟の長男として生まれた。父は昭和9年生まれのいわゆる「昭和一桁の男」。支配的なところがあり、特に教育に関しては自分の意見を押し通すタイプだった。
「父は、僕たちが幼い頃から『まず国立の旧七帝大を目指すのは当たり前で、そこに行けなかった人が早稲田・慶応にいく。それが標準だ』と繰り返し言い続けていました。だから僕もそれが当たり前だと思って育ちました」
剱持さんは幼い頃からスポーツも勉強も得意で、父が思い描いた道を歩むことに何の疑いも持たなかった。しかし中学3年生の受験シーズンの頃から、突如崩れ落ちるように人生が変わっていくことになる。
突然、原因不明の血尿が出るようになったのだ。
「トマトジュースのように真っ赤な尿が出て、しばらくすると治る。そういう状態が続きました。すごく怖かった」
大きな専門の病院でも検査を繰り返し、名医にも診てもらったが結局原因ははっきりとしなかった。医師は「成長期に見られるものであり、体が成長しきれば症状も止まるはずだ」と診断。実際に24〜25歳ごろには完全に症状は出なくなった。
しかしそれまでの間、この病は少年の心に常に暗い影を落とし続けた。
高校で心が折れ「人生を投げ出した」
治療のために時間も精神も削られた結果、もともと目指していた進学校は諦め、近隣の新設校に進んだ。その学校は現在は東大合格者も輩出する名門校だが、当時は新設校のため“名門”というわけではなかった。そのため、父は息子が選んだ進路に納得できず、不満や批判の言葉を浴びせ続けた。
「だから高校2年生のとき、僕はもう人生をバーンと投げ出しちゃったんです」
父親に対する不満と、まったく改善しない体調。さらに「オスグッド・シュラッター病(10〜15歳頃の活発な発育期の男子に多く発生する、膝の脛骨が出っ張って痛むという骨軟骨炎)」を発症し、スポーツに打ち込むことさえも難しくなってしまった。
ストレスが重なる状況に耐えきれなくなった剱持さんは、一切勉強をしなくなった。
「赤点を取って喜んでいたんです」。それが、当時唯一できる小さな反抗だった。
一方で、「母はずっと僕の味方をしてくれていました」。偏った価値観を振りかざす夫と対立して喧嘩になることもあったという。しかし父は一切耳を貸すことはなかった。
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