静岡・長野の空白地埋める「国鉄新線」なぜ幻に? 「暴れ天竜」に架設された長く狭い人道橋の謎
天竜川沿いの鉄道整備を求める動きは明治期からあった。東海道本線の全通から6年後の1895年、浜松から中央本線に接続する「遠信鉄道」を浜松商業会議所が提案している。遠州(静岡県)と信州(長野県)の伊那地方を結ぶルートを形成して沿線の森林・地下資源の開発・振興を図るとともに、天竜川の電力開発も企図していた。
大正期に入って幹線鉄道の整備がほぼ完了した1922年、国は地方路線の整備促進を目的に鉄道敷設法を改正。中央本線の辰野駅から飯田を経て東海道本線の浜松に至る区間が同法の予定線として盛り込まれた。
「別ルート」完成で停滞した佐久間線
この時点では、遠州電気鉄道(現在の遠州鉄道)が浜松(現在の新浜松に相当)―鹿島(のちの遠州二俣、現在の西鹿島に相当)間を開業済み。長野県内では上片桐―辰野間が伊那電気鉄道の手により開業済みで、天竜峡―上片桐間も計画・工事中だった。さらに愛知・静岡・長野の3県をまたぐ三河川合―佐久間(初代、現在の中部天竜)―天竜峡間で三信鉄道が計画され、4年後の1926年に地方鉄道免許を申請している。

残る二俣―佐久間間は国鉄の佐久間線として建設されることになり、1926年に建設が決定。昭和初期の1930年度に着工して1935年度の完成を予定していた。ただ、標高1000~2000m級の山に囲まれた渓谷地帯で建設条件は厳しい。さらに国の財政難もあって着工には至らず、のちに1937年度着工、1941年度完成予定に延期された。
戦時体制へ移行するなかで1937年度の着工も見送られたが、それでも一部測量に着手して1944年にようやく国会で予算化。1947年度までに完成予定とされたが、結局は戦争の激化で中止に追い込まれた。
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