≪猫看板≫が大バズりの日暮里駅、谷根千エリアが“猫の街”になった意外な経緯も
そんな谷根千エリアだが、そもそもなぜ“猫の街”として知られるようになったのか。大正11(1922)年創業、谷中銀座にある自家製飴、昔菓子を販売する「後藤の飴」の店員さんに尋ねてみた。
最初から“猫の街”ではなかった?
「実は私たちが子どもの頃は、この辺りは特に“猫の街”とは呼ばれていませんでした。谷中霊園や空き地に野良猫や飼い猫が歩いていたのは確かですが、きっかけは、テレビが『朝倉彫塑館』を紹介したことです」(「後藤の飴」ご担当者)
「朝倉彫塑館」(前・「朝倉彫塑塾」)は、明治から昭和に活躍し、「東洋のロダン」と呼ばれた彫刻家、故・朝倉文夫氏が作った元アトリエだ。同氏は猫をこよなく愛しており、「朝倉彫塑館」の「猫の間」には、朝倉氏が愛した猫をモチーフにした作品が一堂に介している。これをテレビが「猫がいる街」として取り上げたことがきっかけだった。
「また、駐在さんが近所の猫に餌をあげたりして面倒を見ていたことも世間に知られていきました。それを聞きつけたのでしょう、“面倒を見てくれる人がいるなら安心だ”と、街の外から多くの方が猫を捨てに来られるようになったのです。
そして捨て猫があふれ過ぎたため、わが街としてもテレビに“猫について紹介するのはやめてほしい”とお願いを……。その後、猫を捨てに来る人が減るようにと、捨て猫の名前を“地域猫”と呼ぶように変え、近所の獣医さんが去勢もしてくれました。さらにはNPOのボランティアの方々が猫を保護してくださり、捨て猫はみるみる減少。大切な猫の命が救われ、街の人々も安堵しています」(「後藤の飴」ご担当者)
かくもテレビの影響力は大きかった。同じく谷中銀座にある「武藤書店」さんも、「ですから街としては、谷中銀座を“猫の街”として、特に推しているわけではないのです」と明かす。
ただ、SNSで駅標が定期的にバズるようになり、「谷根千エリアや谷中銀座の知名度が変わらず上がっているのはありがたいですね」と話してくれた。
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