「そして、喜多川歌麿は蔦重のもとを去った」 歌麿をスターの座に押し上げた”蜜月時代”の傑作美人画と最強タッグ決別の背景
一方、「団扇を逆さに持つ女」「指折り数える女」「提灯を持つ女」「艶書(ラブレター)に妬む女」などには、そういった色っぽさはありません。「艶書に妬む女」は、艶書をクシャッと握りしめた女性の表情が、ユニークであります。
「婦女人相十品」には「手紙を読む女」「扇子を持ち日傘をさす女」「煙草を吸う女」などが描かれています。描かれたどの女性にも「個性」があります。

浮世絵師・鳥居清長が描いたような、高身長で顔の似たような女性の絵というわけではありません。当初、歌麿の美人画の中にも、清長を真似ているような要素があったことが指摘されていますが、「婦人相學十躰」「婦女人相十品」の作品を見ていると、清長の「呪縛」から歌麿は解放されているように筆者は感じます。
歌麿が描いたこれらの女性は、実在の人物なのか、それとも歌麿の想像の産物なのかは見解が分かれており、はっきりしたことは不明です。しかし、美人画の蔦屋からの刊行が、歌麿を浮世絵界のスターにしたことは確かでしょう。
だが、蜜月関係は終わりを迎える…
歌麿は蔦屋重三郎と手を組むことで、そのスターの座に座ることができました。また、重三郎も歌麿の才能を信じ、次々と作品を描かせ、刊行させることにより、利益を得ることができたのです。寛政3年から同5年頃までを、重三郎と歌麿の「蜜月時代」と呼ぶ人もいます。
が、蜜月に終わりがくることも、時にはあります。寛政5年末か、寛政6年頃に2人の間にすきま風が吹き始めたと言われます。
その要因については諸説あるようですが、歌麿の人気が高まったことにより、他の版元からの勧誘が多くなり、歌麿が蔦屋を去っていったというものもあります。
歌麿が蔦屋を去ったことにより、蔦屋重三郎は東洲斎写楽への肩入れを強めたといいます。そうではなく、重三郎が東洲斎写楽への肩入れを強めたために、歌麿が不満に感じて、蔦屋を去ったという見解もあります。
(主要参考引用文献一覧)
・松木寛『蔦屋重三郎』(講談社、2002)
・鈴木俊幸『蔦屋重三郎』(平凡社、2024)
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