「理不尽な死でも同情なし」田沼意知が嫌われた訳 悪政で民衆を虐げたわけでもなく…いったいなぜか

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大河ドラマ べらぼう 蔦屋重三郎 田沼意知
皇居大手門(写真: ikeyama / PIXTA)
NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍したクリエーターや10代将軍・徳川家治の周辺人物にスポットライトがあたっている。10代将軍の徳川家治に重用された田沼意次が、自身の座を譲ろうと考えていたのが、田沼意知である。民衆からやたらと嫌われた意知の生涯について解説する。

亡くなっても同情されなかった田沼意知

その一生を閉じたときに「惜しい人を亡くした」と残念がられる人もいれば、「いなくなってくれてよかった」と喜ばれるような人もいる。

江戸時代中期に権勢を誇った老中・田沼意次の息子・田沼意知は、まさに後者にあてはまると言えよう。その嫌われぶりは、理不尽に凶刃を向けられて命を奪われたにもかかわらず、同情されるどころか、むしろ、斬りつけた側が喝采されるほどだった。

後世で「悪役」とされる歴史人物は数多くいる。だが、意知の場合は悪政で民衆を虐げたわけでもないのに、そこまで嫌われるのは珍しい。いったい、どんな人生だったのだろうか。

田沼意知は寛延2(1749)年に、田沼意次と意次の後妻にあたる黒沢定紀(さだのり)の娘との間に、嫡男として生まれた。明和元(1764)年に15歳で、意次の後継者として認められたようだ。当時就任3年目だった10代将軍の家治に初お目見えを果たしている。

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