「理不尽な死でも同情なし」田沼意知が嫌われた訳 悪政で民衆を虐げたわけでもなく…いったいなぜか

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それから3年後の明和4(1767)年には、父の意次が将軍と老中の間を取り持つ側用人に任じられた。同年に息子の意知は18歳で従五位の下、大和守を叙任している。

さらに2年後の明和6(1769)年に、意次は老中と同等の老中格にまで出世している。このときに意知は20歳を迎える。まさに父の意次が日の出の勢いで台頭していく時期に、意知は青年時代を過ごしたことになる。

意知にとっては、若くして出世する状況が整っていたといってもよいだろう。だが、このラッキーなはずのめぐりあわせが、のちに悲劇を招くことになる。

意次が息子の意知をいきなり引き上げたワケ

江戸期においては、家督を継いで一家の主となるまでは一人前扱いされず、「部屋住み」と呼ばれた。意知はまだ部屋住みだったにもかかわらず、天明元(1781)年、32歳で奏者番(そうじゃばん)に就任。奏者番は、江戸城内の儀式典礼の執行を担当する役職で、部屋住みでの就任は異例のことだった。

そればかりか、天明3(1783)年には、部屋住みのままに若年寄に就任している。若年寄といえば、老中につぐ重職である。度重なる異例の扱いに周囲もざわついたに違いない。しかも、意知は将軍の側近としての職務まで新たに加えられている。

大河ドラマ べらぼう 蔦屋重三郎 田沼意知
田沼意次ゆかりの「相良城趾」の石碑(写真:MORIKAZU / PIXTA)

意次とて自身の威光を振りかざして、息子を引き上げれば、どう思われるか、百も承知だっただろう。たとえ反感を買ってでも、息子の意知に権勢を引き継ごうと意次が躍起になったのは、ある誤算が生じていたからではないだろうか。

それは10代将軍・家治の跡継ぎ問題である。家治は正妻の倫子との間には男児が生まれず、側室のお知保の方との間に、竹千代が誕生。のちの家基である。2人目の側室・お品の方との間にも、貞次郎が生まれたが、 生後3カ月で夭折してしまう。

家基こそが次期将軍だと大いに期待されたが、安永8(1779)年に鷹狩りに出かけた帰り道に体調が急変。16年の生涯を閉じることとなった。

意次からすれば、家治から嫡男の家基に引き継がれたほうが、自身の息子・意知に地位を引き継ぎやすかったことだろう。現に田沼家は先代の9代将軍の家重の代に重用され、家重はいまわの際で息子の家治に「田沼意次を重用するように」と遺言を残したという。だが、家基が亡くなった今、同じような展開を望むのは難しくなってしまった。

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