家基の没後、次の世継を決める「御養君(おんやしないぎみ)御用掛」に命じられたのが、若年寄の酒井忠休、留守居の依田政次、そして、老中の田沼意次だった。意次は自身が中心となり、側近さえも遠ざけながら、次期将軍の選定に頭を悩ませている。
その一方で行ったのが、息子・意知の露骨な引き上げであった。自身の影響力があるうちに、息子にレールを敷いておきたかったのだ。
斬りつけられた田沼意知
だが、意知は若年寄に就任した翌年、天明4(1784)年3月24日、江戸城内で旗本の佐野政言(さのまさこと)からいきなり斬りつけられる。このときの傷が原因で、意知は死去。享年36歳だった。政言には切腹が命じられることとなった。
凶行の理由について、佐野によるものとみられる斬奸状(ざんかんじょう)には、こんなことが書かれていた。
「勤功の家柄の者を差し置き、天下御人もこれ無きように、部屋住みより若年寄に致し候」
もっともこのことだけで、意知が恨まれたわけではなさそうだ。佐野家と田沼家は本家と分家という関係にあり、意知が佐野家から系図を借りて返却しなかったとか、佐野が出世のために金品を贈ったが見返りがなかったとか……事件に至るまでに両者間で何らかのトラブルがあったと見られている。
刃傷に至った真の動機は今でもよくわかっていないが、確かなのは、意知への同情の声は少なく、世間はむしろ佐野の行動を支持したということである。
『蜘蛛の糸巻』という随筆によると、佐野は「世直し大明神」とあがめられて、香花を手向ける者も数多く見られたという。一方で、意知の葬列において、石を投げる者まで現れた。
田沼親子の権勢への反感がそれほど強かったということだろう。町の狂歌師たちも、こぞってこの事件を題材に歌を詠んでいる。
「剣先が 田沼が肩へ 辰のとし天命四年 やよいきみかな」
「金とりて 田沼るる身の にくさ故 命捨てても 佐野みおしまん」
無料会員登録はこちら
ログインはこちら