有料会員限定

「米不足」ゆえに至った太平洋戦争への回帰不能点 真珠湾攻撃の半年前に「仏印進駐」を決めた理由

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

有料会員限定記事の印刷ページの表示は、有料会員登録が必要です。

はこちら

はこちら

縮小

当時の「帝国食糧問題」を、社会、農村事情からざっと見ておこう。

コメは食生活の中心で年間需要量は約8000万石(1200万t)。その8割を内地産、2割を外地(朝鮮、台湾)からの移入米で賄っていた。

太平洋戦争前、大量の輸入米に依存するようになったのは1939年。旱魃(かんばつ)で朝鮮移入米がほぼ途絶え、1940年にかけて西日本を中心に、米騒動に近い混乱が起きた。この経験を踏まえ、政府は1940(昭和15)年産米の大増産に取り組んだ。生産目標は7100万石(1065万t)と平年作より750万石(112万t)多い。

一方、増産を課された農村は労力不足。軍隊の応召に加え、稼ぎを求めて青壮年が流出し、「(某村の如きは)今や農林業に従事せるは初老以上の者にして、中には60歳以上の老夫婦によりて辛うじて農業生産を維持しつつあるものあり」(資料1)の状態だった。

食糧増産は国家的問題だった。政府は労務動員計画上で「特に考慮を払い」、陸軍は兵士の一時帰農を認め、国鉄は移動援農班の運賃を割り引いた。だが、焼け石に水だった。

すべてが軍需優先の総動員体制の下、肥料も足りず、しかも間に合わなかった。残されたのは精神運動。<大和魂>を無形の戦力として軍事作戦を続けたように、「鋤(すき)、鍬(くわ)を取って田畑を耕すことは、戦場に於て銃器を持って戦うのと同じ」(資料2)と政府は説き、「努力以上の努力」を農村に求めた。

労力が足りない農村は、共同作業、共同炊事、共同託児所を工夫した。1日の働く時間を増やしたが追いつかず、収穫まで3回は必要な除草作業を2回、1回に減らした。田畑は耕作放棄され、小作地を地主に返還する動きが広がった。

米配給制の成否がかかった仏印米の輸入

7100万石(1065万t)の大増産を目指した1940年産米だったが、結果は6087万石(913万t)と、前5年平均より430万石(65万t)も少なかった。

次ページ食糧不足への危機感とは
関連記事
トピックボードAD