山東京伝は宝暦11(1761)年、深川木場にて質屋の長男として生まれた。本名を岩瀬醒(さむる)。13歳のときに京橋銀座一丁目に移り住むと、15歳で絵師の北尾重政(しげまさ)に入門したとされている。
北尾重政といえば、蔦重が初の出版本となる『一目千本』(ひとめせんぼん)で絵を担当した人物である。
まだ駆け出しの蔦重の依頼を快諾するくらいだから、面倒見のよい男だったのだろう。門下生も多く、「鍬形蕙斎」(くわがた・けいさい)の名でも知られる北尾政美(まさよし)や、全身像の美人画を得意とした窪俊満(くぼ・しゅんまん)などを輩出している。山東京伝と年が近く同門にあたる北尾政美は、京伝の黄表紙に挿絵を描くこともあった。
絵だけでは満足できず戯作の世界へ
山東京伝は当初、「北尾政演」の名で画工として世に出ている。安永7(1778)年、18歳で黄表紙『開帳利益札遊合』(かいちょうりやくのめくりあい)の絵を担当した。
京伝が戯作者としてデビューしたのは、それから2年後のこと。安永9(1780)年、20歳のときに黄表紙『娘敵討古郷錦』(むすめかたきうちこきょうのにしき)で振袖美人の敵討ちを描いて、初めて「京伝戯作」という角印を使用している。

また同年に『米饅頭始』(よねまんじゅうのはじまり)を版元の鶴屋喜右衛門から出版している。町人の幸吉が腰元のおよねと駆け落ちして、さまざまな苦難を経験しながらも、「鶴屋」の屋号で店を出して、饅頭を売り出すという話だ。
戯作者・京伝の出発点となった『娘敵討古郷錦』や『米饅頭始』だが、ともに画作は「北尾政演」。つまり、絵も文も自分で書いてしまったのである。
この頃から吉原にも通い始めたといわれているから、創作も遊びも全力投球だ。ほとばしるエネルギーを、京伝は自分でも抑えることができなかったのではないだろうか。
人が世に名を成すまでには、いくつかのターニングポイントがある。
京伝の場合は天明2(1782)年、22歳のときに世に出るきっかけをつかんだ。大手の版元「鶴屋喜右衛門」(つるやきえもん)から 『(手前勝手)御存商売物』(ごぞんじのしょうばいもの)を出版すると、狂歌・戯作・随筆と多彩なジャンルに筆をふるった大田南畝(おおた・なんぽ)から激賞されたのである。
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