「自由が大切だからといって、銃を持つ人の自由を許すとどうなるのか?」ノーベル賞経済学者スティグリッツが問い直す
アメリカではほかのどの国よりもはるかに簡単に、AR15ライフルなどの自動小銃を購入できる。その理由は、最高裁判所が憲法修正第2条の解釈を誤り、憲法は事実上あらゆる拳銃を所有する権利を保障していると判断したからだ。テキサス州など一部の州では、さらに攻撃用武器まで容認している。
最高裁判所の解釈では(テキサス州ではなおさらそうなのだが)、銃を持つ権利が、その結果として殺害されるかもしれない数千もの命より優先されている。銃所有者という一集団の権利が、ほかのほとんどの人々がそれ以上に重要な権利だと見なしている生きる権利の上に置かれている。
アイザイア・バーリンの言葉「オオカミの自由は、往々にしてヒツジにとっての死を意味する」を言い換えれば、こういうことになる。「銃所有者にとっての自由は往々にして、銃乱射事件で殺害される児童や大人にとっての死を意味する」
これは、一部の人々がとる行動がほかの人々にマイナスの影響を与える外部性の一例である。こうした負の外部性がある場合、そのような行動をとる資格を与え、それを権利にまでまつりあげれば、必然的にほかの人々の自由を奪うことになる。
外部性は、私たちの経済や社会に蔓延している。現在ではそれが、ジョン・スチュアート・ミルが『自由論』を執筆した時代よりも、あるいはフリードマンやハイエクが主張していたよりもはるかに重要性を増している。
すでに見てきたように、市場はそれだけでは、外部性が引き起こす経済の歪みを十分に「解決」できない。自由のトレードオフが避けられない以上、どの自由がより重要なのかを反映した原則や実践方法を考え出す必要がある。
至るところに存在する外部性
外部性はどこにでもある。それはこれまでも存在し、重要な役割を果たしてきたのだが、経済や世界の構造に起きつつある変化により、いまではその外部性が中心的な要素になっている。現在の経済政策の重要な問題には、外部性の管理が必ず伴う。それはつまり、有害な(負の)外部性がある場合にはその活動を抑制し、正の外部性がある場合にはその活動を推進する、ということだ。
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