また、喜三二自身が20代には自ら「宝暦の色男」と呼ぶほど吉原に通ったことも、蔦重の版元が選ばれたことと、無関係ではないだろう。
喜三二は本名を「平沢常富」といい、享保20(1735)年に寄合衆家臣の西村久義の3男として生まれると、14歳で秋田藩士・平沢家に養子入りをする。江戸藩邸の「留守居役」という他藩と密に連絡をとる職に就くことになった。
情報収集も兼ねた吉原通いは、趣味と実益を兼ねたライフワークといったところだろうか。喜三二は老舗出版社より、そんな馴染みの吉原で生まれ育った才能あふれる蔦重に、自分の運命を託したい。そう考えたようだ。
鱗形屋孫兵衛の教えを受けた蔦重の頼もしさ
さらにいうならば、前述したように、蔦重は25歳のときに鱗形屋版吉原細見の編纂にかかわったことから、出版人としての道を切り拓いた。下積み時代に、孫兵衛から出版の基本を叩きこまれているだろうことも、喜三二が蔦重に期待をかけた要因の1つだったに違いない。
蔦重に取って代わられたことが強調されがちだが、自身もヒットメーカーで、いわば「出版人・蔦屋重三郎」の生みの親でもある鱗形屋孫兵衛。彼もまた、江戸の出版文化を大きく発展させた出版人の一人だといえるだろう。
【参考文献】
松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』(講談社学術文庫)
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』 (平凡社新書)
鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社)
倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社)
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