この傾向は安永6(1777)年と安永7(1778)年にも続いたが、安永8(1779)年には出版点数が激減。その後、黄表紙の出版自体が消滅している。
おそらく刊行点数が激減した前年の安永7(1778)年に、鱗形屋の経営に何かしらの問題が生じたのだろう。ちょうど蔦重の出版事業が低迷した時期にも重なる。ともに出版物が減少していることについて『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』(松木寛著、講談社学術文庫) では、次のように分析している。
「この原因を推測するに、それまで系列店に仕事を回すなどの面倒をみていた鱗形屋の営業が手づまりとなり、鱗形屋からのルートが途絶えがちになったための現象と考えたいが、どうだろうか」
蔦重にとって鱗形屋の失墜は、長期的にはプラスになったが、短期的には経営を悪化させる要因となったようだ。
売れっ子「朋誠堂喜三二」の力で蔦重は復活
だが、蔦重は鱗形屋と一緒に沈むことはなかった。安永9(1780)年にいきなり15種もの出版物を刊行して出版業界を驚かせている。復活のキーマンとなったのが、戯作者の朋誠堂喜三二である。

蔦重が刊行した15種の出版物のうち、朋誠堂喜三二の作品が3種も占めている。鱗形屋のお抱えの売れっ子をうまくスライドさせる格好となったが、多くの版元が同じことを考えたはず。鶴屋喜右衛門のような大手の版元もあるなかで、なぜ弱小だった蔦重が、喜三二を抱えることに成功したのだろうか。
まず、黄表紙の刊行に至るまでに、蔦重が巧みにジャブを打っていたことが功を奏した。蔦重は安永6(1777)年3月に華道書『手毎(ごと)の清水』を発刊すると、その序文とあとがきを喜三二が担当している。
この仕事を皮切りにして、8月には絵本仕立てで吉原を番付した『明月余情』(めいげつよじょう)を発刊すると、その序文も喜三二に寄稿してもらっている。
そして12月には、喜三二による戯作として『娼妃地理記』(しょうひちりき)の刊行に、蔦重はこぎつける。吉原の各町を一国に見立てつつ、遊女屋を郡、遊女を名所になぞらえて、地理書のように吉原を案内していくというユニークな企画だ。喜三二も「道蛇楼麻阿」(どうだろうまあ)というふざけた筆名を使うなど、ノリノリで仕事をした様子が伝わってくる。
これらの刊行物での仕事を通じて、喜三二は蔦重の人間性をよく理解し、ビジネスパーソンとして信頼できると考えたのだろう。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら