「うれしいのは、家族揃って夕飯が食べられること」フレンチのシェフから転身したラーメン店主のセカンドキャリア

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増田さんは島田市内で寝具店を営む両親の間に次男として生まれた。高校3年生のとき、同級生たちが早々と進路を決めていく中、校内でただ一人、増田さんだけが白紙だったという。とくにやりたいことはなく、できれば何もしたくないというのが本音だった。

お互いに刺激し合う仲間との出会いが財産

当時、増田さんは喫茶店でアルバイトをしていて、ある日、友達が何気なく「将来、お前が店を開いたら、皆で集まれるな」と言った。それも楽しそうだと思い、調理師学校へ進学することにした。

卒業後は静岡市内のフレンチレストランで料理人としての修業がはじまった。店での初任給は手取りで6万円。一方、喫茶店でのアルバイトは多いときで月に9万円。当時、料理人の世界では師弟制度が色濃く、見習いの給料はどこもその程度だった。4年間働いても手取りで7万1000円。何とか給料を上げてもらえないかと思い、店を辞めて東京で修業したいとシェフに話した。

ル・デッサン 増田稔明
「ル・デッサン」の店主、増田稔明さん。店内の一角にはフランスの修業時代に描いた絵や東京時代の料理写真などが飾られている(筆者撮影)

「『お前は次男で家業を継ぐ必要もないだろうから、フランスへ行け』と、シェフはパリで店を開いている知り合いに電話をしました。それでフランスへ行くことになりました」(増田さん)

パリにあるシェフの知り合いの店を訪ねると、「たしかにシェフとは友人だが、お前のことは知らない」と言われ、住むところと他の店を紹介された。話が違うと思ったが、ここで突き放された意味を後になって知ることになる。

フランス人オーナーの店で働くことになったものの、言葉がわからないから仕事がまったくできなかった。その後、リヨンの近くにある田舎のレストランで働くも、相変わらず、仕事は雑用ばかり。人生で初めての挫折を味わった。

「暇を見つけては絵を描いていました。帰国することも頭を過ぎりましたが、将来、自分の店を『ル・デッサン』と名付けて、店内に飾ろうと思って踏ん張りました」(増田さん)

渡仏して1年半が過ぎ、増田さんは南フランス・モンペリエの「ジャルダン・デ・サンス」にいた。その頃、ミシュランの1つ星から2つ星に昇格し、店全体が活気に満ち溢れていた。フランス語も片言程度であれば話すことができるようになり、「仕事をくれ」と自らどんな仕事でも引き受けた。徹底的に自分自身を追い込んで、料理の技術や知識をスポンジのように吸収していった。

「お互いに刺激し合う仲間もたくさんできました。それがフランスでの3年間で得たかけがえのない財産だと思っています。最初に行ったパリの店のシェフが私を突き放したのは、誰かを頼るのではなく、すべて自分の力で切り拓けと言いたかったのだと思います」(増田さん)

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