蔦屋重三郎も注目「狂歌本」流行の裏の熾烈な争い 作風の違いで唐衣橘洲と四方赤良の対立も
賀邸の名は、淳時といい、江戸に住む幕臣でした。賀邸は、近隣の子弟に国学を教えていましたが、狂歌を好み、いつの頃からか、人にも勧めるようになります。
賀邸の門人には、唐衣橘洲・四方赤良(大田南畝)・朱楽菅江などがおりました。この3人を「天明狂歌の三大家」という人もいます。
ちなみに、唐衣橘洲(1743〜1802)もまた幕臣であり、名を小島恭従といいました。戯作者・大田南畝の随筆『奴師労之』には「江戸において狂歌の会を初めてやったのは、四ツ谷忍原横丁に住む小島橘洲(唐衣橘洲)である。その時、参加していたのは、僅か4・5人だった」とあります。
明和6年(1769)に橘洲の家で狂歌会が開催されたのですが、それに参加していたのは、少人数だったようです。「江戸狂歌の発生源」と言われるこの会は、微弱な小波だったと言えましょう。しかし、この小波は、次第に、強烈な狂歌熱により、天明年間に大波となるのです。「貴賤上下、おしなべて、皆、狂歌のみを詠み」と評されるような状況となるのでした。
そんな狂歌熱をいっそう後押ししたのが、狂歌書の出版でした。唐衣橘洲が編集した『狂歌若葉集』や、四方赤良・編集の『万載狂歌集』(天明3年=1783年)などが刊行されました。
狂歌集『狂歌若葉集』の刊行は、天明3年のことですが、この前年に刊行された狂歌本は、わずか4種。それが翌年になると、19種にまで激増するのです。
狂歌本の版元は、前川六左衛門・上総屋利兵衛・須原屋伊八・須原屋市兵衛などでしたが、蔦屋重三郎も狂歌本を刊行しています。狂歌が大衆の間で、ブームになっている。ならば狂歌本を刊行すれば売れるに違いないとの目算が働いたのでしょう。
天才だった大田南畝
さて、先ほど登場した「四方赤良」は、大田南畝の別号ですが、赤良は10代の後半で漢詩集や狂詩集を刊行するという「天才」でした。
その後、赤良は洒落本や黄表紙評判記を安永年間(1772〜1781)に刊行していき、天明年間には狂歌本を刊行するようになるのです。
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一方、赤良の同門・唐衣橘洲は、天明元年(1781)頃から狂歌集(『狂歌若葉集』)の刊行を計画していました。
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