伊藤蘭が好きすぎて「腕にRANと彫った」彼の半生 「高校の2年で100公演」半世紀後も応援する理由

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そんな2人から『キミもキャンのファン? 』と声をかけてきてくれて。で、話していたら『このあいだ夜のヒットスタジオを観てたらさ、ランが俺がプレゼントしたネックレスしててさあ』と言うんですよ。人生最初のカルチャーショックと言っていいでしょう。それを聞いて『東京じゃこんなすごいことがあり得るのか!?』と驚愕でしたね」

ランにも会えるまではいかなくとも、近くで同じ空気を吸いたい。幼い頃から絵を描くのが好きで、金沢の美大へ進もうと考えていた石黒さん。しかし、東京からやってきた2人組に感化されて完全に「その気」になり、一歩でも近くにいたい想いは、キャンディーズの解散を経験した高校3年生になっても消えなかったのです。

「上京するとき部屋のポスターと切り抜きを全部はがしました。少なくとも300枚あったかな。部屋中に貼っていたからすごい量でね、はがすのに苦労しました。こんなにも毎日キャンとランのことばかり考えていたんだと、感慨深かったですね」

ちなみに高校3年生までにキャンディーズにつぎ込んだお金は、コンサートにおける諸費用、レコード・雑誌の購入費など合わせて300万円に達していたはずということです。

「出版の道に進めばランを取材できるかもしれない」

上京し、倍率40倍にのぼる芸大の油画科を目指し美術系の予備校へ通うも、怠惰な生活を送るだけで浪人生活は3浪目に突入。その間、ランは映画『ヒポクラテスたち』(1980年/昭和55年)で女優・伊藤蘭として復帰を果たします。「東京に行けば、少しでもランに近づける」と熱い想いを胸に上京したものの、精神的な距離感は金沢にいた頃より遠のいたのでした。

「毎日、喫茶店のアルバイトでコーヒーを淹れて、ナポリタンを1日に何十皿も作って、それの繰り返しでした。せっかくバイトで得たお金を競馬でスッてしまう日々。『この人生、なんとかしなければ』と焦り、画家の道はあきらめて、ジャーナリスト専門学校に入学しました。ここで勉強して出版の道に進めば、復帰したランにインタビューできる日がくるのではないかと思ったから」

ジャーナリスト専門学校を卒業後、講談社の雑誌『PENTHOUSE』のフリー記者となった石黒さん。その後は、同社の『Hot-Dog PRESS』で契約編集者に。この10年近くの間で、インタビュー、グラビアなど伊藤蘭取材に漕ぎつけるべく果敢に3度のアタックを試みます。

しかし、当時の所属事務所の望む内容ではなく、実現には至りません。まるで「やさしい悪魔」が邪魔するかのように、神はなかなか石黒さんに「微笑をかえして」はくれないのでした。

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