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日本経済はアベノミクス効果で景気回復や賃金上昇が叫ばれているものの、これから先どうなるかは誰にもわからない。将来の不確実性がより高まっている今、必要なのは自分の人生を見つめ直す新しい視点を得ることである。そのキーワードになるのが、「グローバルな視点とパイオニア精神」である。ビジネス、文化、芸術など様々な分野でボーダレス化が進み、新しい枠組みや取り組みがどんどん現出してきている。多様性・感受性を持ち合わせた人物にとっての好機が到来しているのだ。そこで輝くためにはいかに自分自身を磨き、いわゆる「パーソナルブランディング」を行っていけばいいのか。時代の第一線で活躍する人たちに話を聞いた。
多様な人たちとのかかわりの中で
ものの見方を変える楽しさを学んだ
――大学在学中には、どのような活動をされていましたか。
伊田 一つのことに打ち込んだというより、いろんな経験をして経験値を上げていく、自分にとって何が楽しいのかを必死に探していたという思い出があります。週1回男だけで集まって「今の日本をどうするのか」を考えたり、留学生と互いの国について話をしたり、寺社巡りをして歴史を勉強したり、いろいろなことにチャレンジしていた気がします。
僕は北海道出身ですが、同志社には多様な人がいて面白かったですね。先生も自由な方が多くて、今の自分の自由な発想は、そうした先生方に学んだと思っています。ある先生は授業に出ない学生が多かったので、テストのときに「私の顔を選びなさい」と出題していました(笑)。そのユーモアのセンスはすごいなと今でも思い出しますね。
――大学卒業後の進路はどのように思い描かれていましたか。
伊田 学生時代にいろいろな人に会ったことで、ものの見方を変えるだけで、つらいことでも楽しくなるということを学ぶことができました。そのせいか「こんな考え方があるよ」と示唆することができるような仕事をしたいと思うようになりました。
もう一つ考えたのは、「何をやりたくないか」ということ。満員電車に乗りたくない。スーツは着たくない……。やりたいこととやりたくないことをセットで考えたとき、メディアという仕事が視野に入ってきたのです。
小さな仕事を積み重ねて自分の存在を認めてもらった
――大学を卒業して、リクルートに入社されました。入社後は、どのような仕事をされましたか。
伊田 入社して最初は住宅関係の雑誌の編集部に配属されたのですが、住宅購入というテーマが、22歳の価値観からは遠すぎて、なかなか仕事に夢中になることが難しかったですね。会社の中で、もっと面白い部署はないかと探していました。
すると、リクルーティングの観点から企業ブランディングをやっている部署を見つけました。当時の辣腕編集長にそこに行かせてほしいと言ったら、なぜかすんなり行かせてくれました。「あなた、コピーライターをやりたいの? じゃあ、そっちへ行きなさい」と捨てられるように言われて(笑)。結果的に、その編集長には感謝しています。
こうして、入社2年目で希望の部署に配属され、学生向けも含めた企業全体のブランディングに携わるようになりました。クライアントは軒並み、大企業でした。そこで、コピーライターの仕事をするようになったのです。
――希望どおりの職場に配属されて、それからは順調に仕事が進みましたか。
伊田 リクルートは変な会社で、配属されても、どんな能力があるかわからないヤツには、仕事が来ないんですよ。だから、仕事も、自ら開拓していかなくちゃいけない。最初は、小さい仕事を積み重ねて、認めてもらうしかないのです。クライアントは社内の営業マンで、彼らから指名してもらわなければ仕事が来ない。今にして思えば、独立してからのほうがよっぽど楽で、当時は個人事業主のように社内営業を繰り返していました。
当時僕の立てた戦略は、営業でキーマンとなる人を探って、その人の役に立てば、仕事のチャンスが得られるのではないか、というもの。そのためにいろいろなことをやりました。偉い人の代わりに銀座のお姉さんのところにお花を届けたこともありますよ(笑)。ほかにも、あえて不人気企業の仕事を率先して引き受けたり、実績を積み上げるのに必死でした。仕事自体は好きだったので、あとはどうしたらチャンスをもらえるか、そればかり考えていました。
組織が変化しても自分のやり方は変えない
――コピーライターとして活動しはじめた当時、どのような姿勢で仕事に取り組まれていましたか。
伊田 そのころは、まさに自分のために仕事をしていたと思います。評価される派手な広告や、皆に見てもらえる広告をつくりたい。その思いが強く、クライアントのことはそれほど考えていなかったかもしれません。
でも、26歳で新人賞を獲ったりして、周囲に認められると、今度は自分が広告で賞をもらうために仕事をしていてはダメだと思うようになりました。クライアントに対して、本当に付加価値を出せたのか。クライアントだけでなく、そこからつながる社会に対しても、どれだけ貢献できるかを考えるようになっていったのです。
――その後は、順調に仕事が進んだのでしょうか。
伊田 入社して5~6年後くらいに、会社の雰囲気ががらっと変わってしまいました。それまで個人の力でクライアントに接していたところを、もっと合理的にやりましょうということで、すべてを数字で判断するようになったのです。
会社がゴタゴタする中で、自分のキャリアの方向転換をする人も出てきました。でも、僕は会社が右に行くから自分も右に行くというわけではなく、これまでと同じスタンスで仕事をしようと思いました。しかし、組織の方向性が変わっているので、同じいい仕事をしても、評価は大きく上下する。10点満点の人事評価で、8点だったときも2点だったときもあります。それは自分の仕事に変化があったわけではなく、組織の考えや上司の評価が変わったことが原因でした。
そうは言っても、評価が下がればやはりうれしくありません。そんなとき救ってくれたのが、実はクライアントでした。「あなたの会社の方向性は変わったのに、これまでと同じようにやってくれてありがとう」。そうした言葉に支えられました。
独立するも仕事のない日々が続く
――入社して数年を経て独立されましたね。どのようなきっかけがあったのでしょうか。
伊田 そもそものきっかけは、当時のマネージャーの後押しもあって、一旦会社を辞めてプロ契約クリエイターになったことです。成果報酬ベースで仕事をすることになった結果、収入も増えましたし、仕事も充実していました。会社と個人が本当の意味で、対等な関係で仕事をしていく制度や環境をつくれたのは、リクルートの素晴らしいところでしたね。
ところが、信頼関係のあったマネージャーが異動になったタイミングで、コストカットがはじまり、対等だったはずの関係も、あくまで下請け業者みたいな扱いになりました。知らぬ間に、社内にあった席もなくなり、完全に外部スタッフ扱い。結果的に、追い込まれるようにして独立することになりました。
――独立されて、すぐに仕事はありましたか。
伊田 30代前半で独立しましたが、3カ月くらいは仕事がありませんでした。六本木に構えた自宅兼オフィスの高い家賃を払いながら、仕事がない。しかもリクルートとの関係もあり、ルール上、これまでのクライアントとも仕事ができません。
そんなとき、フリーで、ある大企業に営業に行ったら、奇跡的に仕事がとれました。そこから次第に仕事が入るようになりました。会社を辞めた年は大変でしたが、翌年からは家賃を払えるような状態になりました。
国内外の広告代理店などからのオファーもありましたが、転職は考えませんでしたね。死ぬほど追い込まれるまでは考えないようにしようと思っていました。
現実を夢に近づける手助けをするため
企業ブランディングの仕事へ
――伊田さんは現在、コピーライターという枠を超えて、コミュニケーションディレクターとして活躍されています。そのようなお仕事をするきっかけはどのようなものでしたか。
伊田 コピーライター時代、ある会社のリクルーティング広告に係わったときに、広告自体は成功したのですが、広告を見て入社した社員がすぐに辞めてしまう状況に直面しました。原因はその会社の企業文化にあるのですが、僕も責任を感じました。結局、いくらいい広告をつくっても、会社や製品の中身が伴っていなければ、人を不幸にしてしまうと思ったのです。
それがきっかけで、黒いものを白く見せるようなファンタジーを描くクリエイターではなく、逆に、現実を夢に近づける作業を一緒にできないかと考えるようになりました。そこで、コピーやコンセプトを通じて、企業文化を築き上げていくスタイルを確立しました。
――企業ブランディングの仕事は、大手企業との競合などもあるのですか。
伊田 あるエンタテインメント企業のコンサルティングのコンペに参加したときのことです。テーマは組織風土改革でした。そのとき競合だったのは、外資系の経営コンサルティングファームや大手広告代理店です。経営コンサルは、データ分析や数字、代理店はテレビCMのアイデアで攻めてきました。
一方僕は、社内でコミュニケーションが生まれる具体的なアイデアを提案しました。たとえば、社員たちがお客様とのエピソードを紙に書き、そのエピソードをカプセルに入れて、引いた人がそのエピソードを持って帰るという仕組みもそのひとつ。それによって、お客様とのエピソードをシェアするというのが狙いでした。当時、上位社員とアルバイトとの意識のかい離が大きな問題となっていたので、偶然、アルバイトが社長の書いたエピソードを目にすることで、お互いを知るきっかけになればと思ったんです。
プレゼンのときには、実際にカプセルトイ自販機をつくって持っていきました。その結果、競合を押さえ、僕がそのコンペを勝ち抜くことができたのです。
共感を大事にしながらアイデアを引き出していく
――面白いアイデアですね。そのようなアイデアはどこから生まれるのでしょうか。
伊田 僕は神様のように答えを出すというスタイルはとりません。とくに企業文化をつくっていく作業では、アイデアの種は、実はすでに社内にあります。それをどう見つけ出すか、です。
そのため、プロジェクトの最初の段階で、関係者が誰であるかをチェックして、その人たちの想いが入るようなアイデアを僕が考えるようにします。
具体的には、とにかくキーマンと呼ばれる方たちの話をたくさん聞くようにしています。開発、マーケティング、社長などキーマンにインタビューして、そこから彼らの共通した思いを見つけ出すのです。そして、それをベースに僕のアイデアを出していくわけです。
そうすると、修正はほぼありません。仕事もやりやすくなります。
――クライアントとコミュニケーションをとるときに気をつけていることはありますか。
伊田 どんな素晴らしいアイデアも、共感してもらえなければ、前に進みません。たとえ、明確に、ゴールが見えていても、自分にしか見えないゴールではダメなんですよ。ゴールに向けて、何度も、クライアントとパスをつなぎながら、進んでいく、そんな環境づくりを大切にしています。言い換えると、いかにみんなを巻き込んでいくか。参加感を持ってもらえるかがポイントになります。そのため、一方的に壇上に立って、プレゼンするようなやり方ではなく、会議室のテーブルで、紙を並べながら、ワークショップのようなスタイルをとることが多いですね。どんなプロジェクトでも、自分を先生扱いしないでほしいと言っています。先生ではなく、ファシリテーターに近いイメージです。
もう一つ言うと、企業人であれば、誰もが組織内で評価されたいはずです。ですから、僕は冗談ぽく、「これを僕と一緒にやったら、○○さんは出世できますか」と聞くこともありますね。会社のために、組織のために、と考えるよりも、この人のために何ができるか、と考えたほうが、うまくいくことが多いと思います。人と人との信頼関係が、すべての基本ですからね。
――トラブルが起こったときの解決法はありますか。
伊田 大きな問題が起きてから、解決するのは非常に難しい。だからこそ、事前の準備をいかにしておくかが重要になります。人間関係がきちんとできていれば、大きなトラブルにはなりません。
普通の会話をして、「この人と一緒に仕事をしたら、楽しい」と思ってもらえることが重要ですね。
企業文化をつくる仕事をもっと認知させていきたい
――パーソナルブランディングについては、どうお考えですか。
伊田 僕自身がブランディングの仕事をしていますが、その経験から言えば、気負って自分を自己演出することは完全にダメですね。できるヤツを演出すると、どこかで必ずバレてしまいます。結局、ロールプレイングゲームのように経験値を積み重ねるしかありません。
あとは、ブレないことですね。自分で自分のコンセプトを決めたら、一定の期間は、ブレずに続けることだと思います。
――グローバル化については、どうお考えですか
伊田 世界でチャレンジしたいという人が増えていますが、気負わないことが大事かなと思います。マイケル・チャンが、錦織選手に、フェデラーのようなスター選手を尊敬しすぎるな、と言ったそうですが、まさに同じで、世界を意識しすぎないことですよ。
海外では、アイデア自体を評価してくれます。アイデアそのものに価値を見出してくれる。まさに考え方を売りものにできるのです。「あなたは何を売っていますか」と聞かれたら、僕は「考え方」と答えます。もし、その考え方に価値があるなら、「考え方ごと君に任せよう」と言ってもらえます。
――将来は、どんな目標を持っていますか。
伊田 企業文化をつくっていく仕事は認知されているようで、まだ認知されていません。企業文化の良さに共感して、皆が応援できるような企業をたくさんつくりたいと思っています。たとえば、スティーブ・ジョブズに共感して、アップルの製品を使っている人はたくさんいるはずです。これから、その流れはもっと激しくなってくるでしょう。そうしたことをさらに認知させていきたいですね。
もう一つは教育です。社会人になると、急にキャリアデザインを考えはじめますが、じつは、子供たちの未来のために、幼いころからエデュケーションデザインを考えることが、大切です。
既存の利権やしがらみに縛られなければ、アイデアで解決できる国の仕組みもたくさんあるはずです。企業だけではなく、国や地域の文化をつくるお手伝いもしてみたいですね。
(撮影/今祥雄)