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日本経済はアベノミクス効果で景気回復や賃金上昇が叫ばれているものの、これから先どうなるかは誰にもわからない。将来の不確実性がより高まっている今、必要なのは自分の人生を見つめ直す新しい視点を得ることである。そのキーワードになるのが、「グローバルな視点とパイオニア精神」である。ビジネス、文化、芸術など様々な分野でボーダレス化が進み、新しい枠組みや取り組みがどんどん現出してきている。多様性・感受性を持ち合わせた人物にとっての好機が到来しているのだ。そこで輝くためにはいかに自分自身を磨き、いわゆる「パーソナルブランディング」を行っていけばいいのか。時代の第一線で活躍する人たちに話を聞いた。
孤独の中で考え続けた貴重な学生時代
――大学時代はどのような学生でしたか。
宮坂 山口の田舎から出てきたのですが、京都の河原町に来たときは正直舞い上がりました。お金はなかったけど、古本屋でいくらでも時間を潰せるし、歩いているだけで面白い。学生にとっては、とてもいい街でした。
親が苦労して私を大学まで行かせてくれたので、入学後の生活費はアルバイトで。長時間働けて時給のいい仕事ということで、祇園や木屋町の飲食店で働いていました。ダイバーシティ(多様性)という観点からも、祇園でのバイトはいい経験になりました。自分の才覚だけでのし上がったような“ストリートスマート"ともいうべき人が山ほどいる。現在の仕事にも、そこで学んだことは役立っています。
――大学時代に人生の転機となるようなことはありましたか。
宮坂 実は3回生になるときに、大学を辞めようと思いました。そのときバイト先の方に「学歴を得られるチャンスがあるなら、得ておいたほうがいい」と諭されたのです。「やめるぐらいなら一年間休学したほうがいい。それから決めろ」と。その方は小学校を出るか出ないかのうちに奉公に出て、叩き上げで苦労してきた有名な料理人でした。説得力がありましたね。
そこで、親に内緒で休学することにしたのですが、その1年間は大きかった。お金もないので、一人で家にいるしかない。一日1冊古本を買ってきて、読みながらぼんやり考え、それから銭湯に入って、バイトに行って、深夜3時ごろ帰ってくる。そんな生活を1年間送りました。
本当は前半でお金をためて、後半は海外に行こうと思っていました。もったいない気もしますが、それでも今から思うと、孤独に考える時間は、とても貴重だったと思います。復学後は、すごく勉強したくなって、それまでの時間を取り戻すように真面目に勉強しました。
内定を獲得するも大企業への反発から辞退
――就職など将来についてどんなビジョンがありましたか。
宮坂 もともとは新聞記者になりたかったんです。ただ当時はバブルで金融業界に進む同級生も多かった。結局、ある新聞社と保険会社から内定をもらったのですが、しっくりこなくて、内定を辞退しました。
実は祇園で働いていたときに、大企業には行きたくないと思うようになりました。その原体験は接待です。当時はバブルの絶頂期。大企業のサラリーマンたちが会社のお金でどんちゃん騒ぎをして帰っていく。一方で、うちの親は田舎でコツコツ仕事をして、自分の生活を切り詰めて私の学費を払ってくれている。当時は若かったこともあり、ずるいことをする人間にはなりたくない。そんなイメージを持っていたのです。
そんなことを考えていたとき、採用PR企業のユー・ピー・ユーが、社員全員にMacを使わせてくれるという話をたまたま聞いて、いい会社だと思って入社することにしました。学生時代に、隆盛期を迎えていたシリコンバレーの本を読んでいたこともあり、おぼろげながらコンピュータにかかわるビジネスをしたいと思っていたのです。
――入社されてからは、どのようなお仕事をされたのでしょうか。
宮坂 新人研修として、東京で『エスクァイア』という雑誌の制作を約半年したあと、大阪に配属され、広告制作にかかわっていました。念願だったMacでDTPを使いこなして、雑誌をつくろうと思っていたのですが、当時の機械の性能の問題もあって、アイデアをなかなか実現できないでいました。しかも、そのころからバブルが崩壊しはじめ、広告業界の景気も急降下、ボーナスも出なくなりました。社会人になっても、風呂なしアパート生活で、悶々と過ごしていましたね。仕事は好きだったのですが、お金がない。なんとかこの生活から抜け出さなくてはならない。最低でも風呂のある家に住みたい。そう思っていました。
蜘蛛の糸を手繰り寄せるように
インターネットの仕事に辿り着いた
――ヤフーに転職された経緯は?
宮坂 今でも覚えていますが、当時自社で制作していたPR誌にインターネット研究の第一人者である村井純先生のインタビュー記事が載っていて、面白そうだと思ったんです。どうしても使ってみたい――。でも、プロバイダもなく、どこで使えるかもわからない。そこで電話帳片手に企業の研究室に片っ端から電話して、「インターネットありますか?」(笑)と聞いてまわりました。
たまたまある財団で見せてもらったのですが、正直つまらないと思いました。世界中の人たちが情報発信している姿を思い描いていたのに、実際に出てくる画面は遅く、コンテンツもない。唯一、米ホワイトハウスのホームページがあるくらいでした。
でも、ある種、蜘蛛の糸のようなもので、今の境遇から抜け出るには、その糸を手繰っていくしかない。インターネットの仕事をしたい。そうしてヤフーに辿り着いたのです。
――ヤフーに入った印象はどうでしたか。
宮坂 前の会社を辞めた2日後にヤフーに出社し、その日からアポイントメントを取り始めたのですが、「ヤフーです」というとお客様は会ってくれる。先週までは自分が電話しても誰も会ってくれないのに、なぜ今週になると会ってくれるんだろう。その違いが不思議でした。
会えるチャンスをもらえたことだけで、本当に仕事が楽しくできるようになりましたね。それまでは、やりたいことがあっても、提案するチャンスももらえなかった。バッターボックスにも入れなかったのです。ヤフーに入ってからは、それまで数年間できなかったことが一気にできる環境になったので、本当に面白かったですね。
50人の部下を抱え試行錯誤する
――それからのお仕事は順調に進んだのでしょうか。
宮坂 実は入社して2カ月くらいは、辞めようと思ったときもありました。こちらは大阪から来た素人で、ヤフーには当時の日本のインターネットの最先端を走る人たちが集まっている。全然レベルが違って、付いていけないのです。パソコンもMacからWindowsに変わってよくわからない。わからないことが多過ぎて大変でした。
それでも仕事自体は面白くて仕方がない。給料も上がって、念願の風呂付きの家に引っ越せたのですが、会社に住んでいるのに近い状況でした。会社にいると、エアコンが効いてるし、インターネットも使い放題。土日もやることがなければ、会社に行っていました。
――30代前半で事業部長になりました。管理職になって何か変化はありましたか。
宮坂 事業部長になったときに、50人の部下を抱えることになりました。それまで部下は2人。ギャップはありましたね。自分の仕事のスタイルを変えるのは結構大変でした。
最初は50人分の面倒を見るために以前の25倍働こうと、会議には全部出て、土日も仕事をしていましたが、無理なことは無理なんです。当時の自分のキャパシティでは10人くらいまで。自分で仕事をすることと、人に任せて仕事をすることには大きな違いがある。2年間くらいうまくいかなくて、試行錯誤しました。そのうち、うまく人にやってもらうことができるようになり、人を通して成果を出すことの喜びを感じられるようになりました。
リーダーは舞台をつくることが仕事
――部下を持つようになって、どのようなことに気をつけるようになりましたか。
宮坂 リーダーは舞台をつくることが仕事です。舞台でどう踊るかは、それぞれの人がやりたいようにやればよいし、それをやらせてあげるのがリーダーの仕事だと思います。
今は仕事でも何でも、いろんなことを選択できる時代です。選択肢が多過ぎて迷う人もいますが、選択ができることは貴重なことなんです。
私たちより上の世代は、就職とは飯を食うためのものであるという時代でした。今だって世界的に見れば、選択できるゆとりのある人たちは、皆が思うほど多くはありません。日本は恵まれており、選択ができる。だからこそ、できる立場にいる人は、選択しなければならないのです。言われたからやるのではなく、選んだからやる。キャリアプランが見えないのではなく、自分で探してみる。そうしないと、選択できない人から「その権利くれよ」と言われてしまいます。
――ビジネスをするうえで、パーソナルブランディングは意識しますか。
宮坂 あまり好きじゃないですね。どちらかと言えば、パーソナルブランディングは居心地が悪くなるほうで、得意ではありません。社長は役割として会社の広報をすることも仕事ですが、それ以外の場で自分をブランディングしようとは思いません。
たまにはSNSやネットをシャットアウトしてみよう
――大学時代に経験したことで、今役立っていることは何ですか。
宮坂 一人で考えた時間です。一人でいることは恥ずかしいことではありませんし、モノや行動は一人でいる時間から生まれるものです。一人で悶々と考える時間は意外にとても大事だと思います。
最近はSNSで四六時中、人の言葉が目に入ります。ネット業界にいる自分が言うのもなんですが、たまにはSNSやネットをシャットアウトして、孤独に考えてみてはどうでしょうか。
私は今でも、一人の時間を大切にしています。その時間をつくるために、走っています。走っているときは、一人だし、声もかけられない。スマートフォンも絶対に持っていきません。その時間は私にとって、とても大事な時間なのです。
――今後の目標は何でしょうか。
宮坂 真面目にきちんと仕事をやっている人が、相応の生活ができるような会社や世の中にしていきたいと思っています。最近は「グローバル競争を勝ち残れ」という声をよく耳にしますが、100人のうち数人はできるかもしれませんが、大半の人は無理なような気がします。
もし英語やプログラミングができなくても、真面目にチームのためにコツコツと献身的にやる人、物事を素直に吸収して仕事をしていく人が、きちんと食べられる。そんな会社や社会にしていきたいと思っています。
(撮影/今祥雄)