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日本経済はアベノミクス効果で景気回復や賃金上昇が叫ばれているものの、これから先どうなるかは誰にもわからない。将来の不確実性がより高まっている今、必要なのは自分の人生を見つめ直す新しい視点を得ることである。そのキーワードになるのが、「グローバルな視点とパイオニア精神」である。ビジネス、文化、芸術など様々な分野でボーダレス化が進み、新しい枠組みや取り組みがどんどん現出してきている。多様性・感受性を持ち合わせた人物にとっての好機が到来しているのだ。そこで輝くためにはいかに自分自身を磨き、いわゆる「パーソナルブランディング」を行っていけばいいのか。グローバル時代を疾走する第一線の人々に話を聞いた。
「努力+夢」=「実現」であることを知った学生時代
――大学時代はどのような学生でしたか。
山下 同志社大学時代はサッカー同好会「三ツ葉キッカーズ」に所属していました。同好会は自主運営なので、グラウンドの予約、合宿のアレンジ、会計、リーグへの登録など何でも自分たちでやりました。さらに、キャプテンになったときは、練習メニュー、トップから3軍までのチーム分けなどもこなしました。自分たちでサッカーをする場をつくり、100人近い部員と協力し合い議論したことは大きな経験だと思います。
同好会には関西リーグがあり、そこで優勝すると関東リーグの優勝者と日本一を競うことになるのですが、私がキャプテンのときに、創立30周年で念願の日本一を果たしました。決勝では延長戦後半に相手の反則で得たPKを私が決めて1―0で勝ちましたが、そのときのプレッシャーは今でも忘れられません。「がんばればできる」という言葉を自分の人生で体現できたような瞬間でした。
――大学卒業後、どのような経緯でアディダス ジャパンに入社されたのでしょうか。
山下 画家である父の影響もあり、世の中に何かモノを生み出す仕事をしたいと考えていました。そこで、せっかくなら自分が好きなものをつくっているところに入ろうと、自分に身近な食品やスポーツメーカーを中心に就職活動をしました。その結果、自分が好きだったアディダスのライセンス商品を当時日本で扱っていたデサントに入社することになったのです。
その後、アディダスの日本法人設立に伴い、98年6月にアディダス ジャパンに入社しました。当時私は27歳でしたが、相当に悩みました。実はいずれは商品企画部門に行きたいと考えていたのですが、外資系企業では営業要員で入社すれば他部門に移ることはないと言われたからです。けれど、アディダスが好きでしたし、当時のアディダス ジャパンの社長が熱い人で「日韓共同開催の2002 FIFAワールドカップ™に一番近いところで仕事ができるのに、おまえはそのチャンスを逃すのか。一生に一回かもしれない仕事を一緒に成功させよう」と言われ、決断しました。
前例のない道を自分たちで切り拓く
――規模的にはベンチャー企業のようなスタートですね。
山下 確かにそうです。前例がないので、様々なルールを自分たちでつくる必要がありましたが、学生時代に同好会で何でも自分たちで行ってきたことが本当に役立ちました。
入社後、営業部門に配属されたのですが、当時、アパレル企画責任者だったイギリス人が、デサント時代に少しだけ面識があって、私のことを覚えていてくれました。これはチャンスだと思い、当時はまだカタコトの英語で「商品企画をしたい」と必死に話したら、なんと彼が企画部門に引っ張ってくれました。念願の企画部門に転属し、フットボール・ウェアを担当することになりました。
ワールドカップに関わることで得た意識の変化
――サッカー日本代表ユニフォームの開発責任者も経験されています。日本代表ならではの苦労はありましたか。
山下 一番苦労したのは2010 FIFAワールドカップ南アフリカ™です。1つのチームで2種類のユニフォームが初めて採用され、選手自身が選べるようになった大会でした。私たちは、素材を変えて、体に密着し動き易さを追求したものと、軽量性・通気性をメインとするユニフォームを選べるという戦略を立てました。
FIFAのユニフォームに関する規定では、2種類のユニフォームがまったく同じに見えなければいけないのです。
その中で一番苦労したのは、カラスの羽のプリントを違う素材で同じ色に見せることでした。いくら試してもうまくいかず、何度も何度も作り直しが必要でしたが、私たちは選手のパフォーマンスを上げるために2種類にこだわりました。納期が近づくにつれて夢に出てくるほど追い込まれましたが、何とか発表に間に合わせることができました。
結果的に南アフリカ大会で日本は好成績をおさめましたし、またその後なでしこジャパンも同様のユニフォームで世界一になることができました。苦労が大きかった分、喜びもひとしおでした。
――開発以外の形でもワールドカップとは関わられていますね。
山下 直近の2014 FIFAワールドカップブラジル™では、インターナル・コミュニケーションという仕事を担当しました。会社も規模が大きくなり、成熟してくると社員は必ずしもサッカー好きばかりではない。いわば、社内を盛り上げる仕事です。同じく同志社大学出身の宮本恒靖さんなどの協力も得て、社内外でいろいろな企画を立ち上げました。
この仕事では、様々な部署と一緒に仕事をすることで、どのようにすれば人を動かすことができるかを学びました。何をすればよいかを一から考え、手作りでつくっていったという意味で、大変思い出深いです。
その究極の形が、被災地の陸前高田で日本代表戦のパブリックビューイングを実現させたことです。参加者の中には仮設住宅に住んでいる方々もいらっしゃいましたが、久々に大声を出して元気が出たと言ってもらえました。スポーツで人に元気を与えることができることを実感した瞬間でした。
――そうした経験の中で仕事に対する意識の変化はありましたか。
山下 30代半ばまでは、「俺が、俺が」と闇雲に突っ走っている感じでした。主役はいつも自分、ビジョンもすべて自分に向いているんです。
それが日本代表のプロジェクトチームのような大きな組織を動かすことで大きく変わりました。リーダーが強いリーダーシップでみんなを引っ張っていくだけでなく、自分のできないことを知って、それぞれ役割分担して仕事を任せることが大事だと学びました。自分のできないことを知っているからこそ、全体を見てどこが足りないのかを見極められる。それがリーダーの役目だと思います。
ミーティングでも、昔は自分のやりたいことをぶつけ合うことが多かったのですが、今はいろいろな人の顔を見て、それぞれの考えを想像しながら、会議の行方を見守ります。そこでバランスを推し量るようになったのは、自分がリーダーを自覚してきた一つの変化だと思います。
グローバルで戦うために必要なことは何か
――グローバル企業で働くことで、気をつけていることはありますか。
山下 私のカウンターパートはデンマーク人、イギリス人、アメリカ人、ドイツ人です。彼らは日本人とはまったく違うアプローチをします。日本人同士だったら何となくわかり合えるという感覚も一切通じません。
世界で仕事をするには、自分の考えていることを日本人同士よりも5~6割増しできちんと言葉や文章にして伝えなければなりません。なぜ自分がそれを言うのかを伝えない限り通じないのです。例えば、ある仕事で調整局面に入ったとき、それは自分の目標達成のために言っているのか、または日本のマーケットを守るために言っているのか、あるいは全世界のために言っているのか、理由をきちんと伝えなければ、彼らは納得しません。
――現在のお仕事もグローバルに関わるものなのですか。
山下 現在担当しているウェアラブルデバイスmiCoach(マイコーチ)は、グローバルで見ても新しい事業です。これまでの事業と違い、ウェアラブルテクノロジーはマスマーケティングが難しい。メディアだけでは伝えきれないことを伝えるために、自ら競技、プロ・アマ問わずコーチのところへいろいろなところを飛び回って地道に機能の説明を繰り返し、ショップスタッフなど商品を世に伝えられる人材の育成を行うことに注力しました。
そうした活動が、日本は地道な活動で成功例をつくったと本社から評価されることになりました。本社の同僚から「おまえがタカシか。ドイツで知らないやつはいないぞ」と言われたときは素直にうれしかったですね。
新しい仕事ですから、自分でつくっていける。フロンティアだからこそ、自分の仕事のかたちをより示すことができる。しかもアスリートのために貢献できる仕事です。そんな実感を持ちながら仕事ができるのは本当に楽しいです。
――将来の目標を教えてください。
山下 将来はドイツの本社で働きたいと思っています。マーケティングをやっている以上、本社で世界を相手に仕事をしてみたいですね。その結果として、世界のスポーツの向上につながるような仕事をするのが夢です。
(撮影/篠田麦也)