日銀が金融危機による景気悪化に対応して緩和策を講じたのは1998年9月だった。政策金利(無担保コール翌日物)を0.5%から0.25%に引き下げた。金融危機では迅速な緩和が必要となるが、これは危機を経験した現在の知見に基づく後講釈だ。当時は、金融機関の連鎖破綻が経済に打撃をもたらすメカニズムは十分には理解されていなかった。
日銀の金融危機への初期対応は、1997年11月初旬の三洋証券破綻で生じた短期金融市場の混乱の回避だった。金融機関が資金を融通し合うコール市場で起きた初のデフォルト(債務不履行)は、資金取引をマヒさせた。日銀は、資金を必要とする金融機関に対して長めの資金を潤沢に供給。余剰となった短期資金を吸収した。資金の供給と吸収を同時に行う「両建てオペ」という手法を駆使した。
この「両建てオペ」は、事後的には、毀損した市場機能の復元策として画期的だったと評価される。日銀で金融研究所所長などを歴任した白塚重典・慶応大学教授は「日本における非伝統的金融政策の起点」と位置づける。(両建てオペとその誤解について詳しくは「日本銀行発の『円売り』、今度こそは本物なのか」)
ここで多くの読者は不思議に思うだろう。なぜ、利下げしなかったのか、と。当時の日銀における金融政策観を説明しておこう。
ゼロ金利は「未知の領域」
日銀幹部らの共通見解としては、1990年代半ばの時点で金融政策の有効性はほぼ失われていた。バブル崩壊の過程で急速に利下げしたが緩和効果は薄かった。利下げしても景気が十分に刺激されない、という意味で「流動性のわな」に陥ったとみられた。
1990年代半ばは景気低迷に歯止めがかかった時期だが、当時の政策金利(公定歩合)は0.5%と空前の低水準だった。さらなる引き下げは選択肢にない。0.5%が下限との認識だったのだ。
この認識は、1998年に発足した速水体制に引き継がれる。危機発生から利下げするまで1年弱もの時間がかかったのは、ありえないと思われたゼロ金利への接近を「未知の領域」と見なしたからだ。
ただし、状況は切迫しており、速水日銀は背中を押される形で「ゼロ金利」や「量的緩和」など実験的な緩和策に挑戦した。それまでの金融緩和の限界を突破した速水日銀は緩和演技に革新をもたらした。
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