早稲田大学のシンボル「大隈講堂」にその名が残る、創設者の大隈重信(1838〜1922)は、肥前・佐賀藩に砲術家として仕える中級武士の長男に生まれた。語学力を買われ、68年に明治新政府へ出仕。殖産興業政策や貨幣改革などで重要な役割を果たした。
そんな大隈が大学創設に動いたのは、81年に提出した「国会開設の意見書」が危険視され、政界から追放(明治14年の政変)となり、自宅で雌伏している頃だった。下野後は、雑誌などへの投稿も控え沈黙を貫いたが、水面下で着々と準備していた。その成果の1つが82年4月に結成された立憲改進党である。そして同10月、政党政治を担う人材の育成を目的に創設されたのが、早稲田の前身、東京専門学校だ。
ところが初代校長を務めたのは養子の英麿。大隈当人は役員でもなければ、開校式典にすら姿を見せなかった。同校が政府に「大隈による党員の養成所」とみられることを危惧したからだ。実際、学校にはスパイが送り込まれ、銀行の融資を止められるなど政府の妨害に遭った。大隈が早稲田で職に就くのは、大学に移行した後、名誉職としての総長が設けられた1907年のことだ。
学校運営や教育内容にいっさい干渉しなかった大隈に代わり事実上学校創設を担ったのが、大隈が「わが輩の参謀」と全幅の信頼を寄せた小野梓(1852〜86)だ。米国や英国への留学経験を持ち、欧米法への造詣が深い小野。その秀才ぶりを聞いた大隈が、81年に自ら新設した会計監査院に登用。明治14年の政変では小野も辞職し、ほぼ毎日大隈と顔を合わせて新党と学校の設立に奔走した。
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