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過日、とある市民セミナーで講演をしてきた。中国の歴史的な性格を話してください、という依頼だったので、さんざん迷ったあげく、儒教をテーマにした。しかし筆者の言いたいことが、どこまで伝わったかは定かではない。
実は筆者は思想哲学が大の苦手、儒教にかぎらず、経典や教義を読むと、頭が痛くなるタチである。若いころ、その種の本をほとんど受け付けないので、歴史、しかも社会経済史を専門にしたいきさつがあった。いまも自身の苦手意識は、あまりかわっていない。けれども少しは勉強したほうがいい、と思い直している。
多様な儒教のイメージ
幸い日本の中国学は世界に冠たる水準で、儒教の経典はひととおり翻訳がそろっているし、その注釈書や説明書も少なくない。初学者でもそこから、かなり詳しいところに入っていけるし、研究や概説もたくさんあるので、かなり専門的なこともわかる。苦手な筆者でも、最近は関心をもてるようになってきた。過日の講演は、そんな興に乗っての話だったのである。
一口に儒教といっても、人によっておそらく抱くイメージはさまざまだろう。日本の歴史でも、儒教は江戸時代に普及した。儒学者を輩出したばかりでなく、政治・思想にも大きな影響を及ぼしたから、多くの日本人には、そうした日本儒教のイメージも強くて当然である。
しかし講演当日は、さすがにそこまで手は回らなかった。それどころか、中国本家の儒教すら、くわしい解説などおぼつかない。筆者にできる話といって紹介したのは、儒教の根幹にある思考の原理である。
儒教は本来、人間関係における道徳倫理の理想を説いたものである。だからその教義も、ごく日常的な常識が基本になっている。キリスト教や仏教、あるいはイスラームなどは、神仏という超越的な存在が、まず前提にあるから、儒教はその点、ほかの宗教と同じではない。『論語』に「怪力乱神を語らず」というとおりである。そのため、儒教は宗教なのか、という論争も続いてきた。
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