山県有朋は日本陸軍を創設し、また内務省を核に日本の官僚制を整備した人物だ。高杉晋作の“長州奇兵隊”の軍監あたりから頭角を現し、最後は明治の元勲として政府の頂点に立った。
死んだとき国葬になった。が、参列者はあまり多くなかったという。吉田松陰の松下村塾にも入ったが、同門の俊才たちからは「山県はただの棒っ切れだ」と軽んじられていた。その頃の彼は学問よりも槍術(そうじゅつ)にハマっていて、将来は、やりの先生になりたいと願っていた。しかし松陰にやりの技術を期待するのはお門違いで、山県のほうも戸惑った。「やりの達人になるのなら、松下村塾に行け」と勧める友人がいて、その言葉に従ったからだ。こういう頓珍漢なお節介者は現在でもいる。山県は酒も弱かったようだ。
維新前の山県はかなり孤独だったという。彼は自宅の庭に木を植えた。植え続けた。木は林になった。この前に小屋を建て「無隣庵」と名付けた。彼はこのいおりから眼前の林を眺めるのを好んだ。
無隣というのは『論語』の“有隣”をアイロニー化したものだ。論語は“徳あれば隣あり”と告げている。つまり「人徳があれば黙っていても、隣に慕う人(それも単数でなく複数)が寄ってくる」という意味だ。
山県は「自分には徳がないから誰も寄ってこない」と自覚していた。これは負け惜しみでもヒガミでもない。彼は自分の孤高性をよく知っていた。奇兵隊のころは仲間とよく馬関(下関)へフク(下関では濁らない、フグとは言わない)を食べに行った。ところが山県は「毒にあたると嫌だ」と言ってフクを食べない。自分だけタイの鍋を作ってもらって、自分だけの七輪を用意してもらったという。かわいくない。皆「あいつは変わり者だ」と言って遊んでくれなくなる。
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