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現代のビジネスパーソンはさまざまな悩みを抱えている。
顧客の信用が得られない、部下が思い通りに動いてくれない、職場の人間関係が上手く行かないなど、悩みすぎて心を病んでしまう人もいる。しかしそんな悩みは今に始まったことではない。商人が江戸で活発に活動を始めたころから同じような悩みを抱える人は大勢おり、それを克服してきたのだ。
そうした江戸商人の考えをとりまとめたのが「江戸しぐさ(江戸思草)」だ。今回、NPO法人江戸しぐさの理事長である土門道典さんと事務局長の鶴見泉さんに、江戸しぐさが私たちの今の働き方にどう役立つのか聞きに行ってみた。
江戸商人に伝えられてきた人の上に立つ者の心構えとは?
―――江戸しぐさとはいったい何でしょうか。
土門:江戸しぐさとは、口伝でずっと伝えられてきたものです。我々の師匠である越川禮子(NPO法人江戸しぐさ名誉会長)が江戸講最後の講師である故芝三光先生に弟子入りして、聞き書きを許され今に至っています。芝先生は江戸しぐさを次のように言っています。
「江戸しぐさは人の上に立つ者の意構(心構え)、あるいは人を使う人の意構である。マナーやエチケットでもなければ、礼儀作法でもない。あえていえば、それらを全部網羅したうえでの意構である」(『江戸しぐさ事典』)
鶴見:江戸しぐさは口承文化として伝わったため、文献は残っていないと言われています。
江戸時代に江戸しぐさという言葉はなく、芝先生がわかりやすく命名したものです。しぐさとは、身ぶり手ぶりのことではなく、「思う、草」で思草(しぐさ)と書き、思いや心情が瞬時に行動に現れるものと伝えられています。商人の中でもリーダー的な人たちが自ら率先して実践してきたもので、それをお店の従業員や家族、周辺の人たちが“いきな姿”だと感心して、広く浸透していくようになったそうです。
江戸は都になって全国各地から生活習慣も言葉も違ういろんな人たちがどんどん集まって、江戸中期には人口が100万人を超えたと言います。その中で自分の商売を繁盛させるためにはどうしたらいいか。また、自分の地域をいかに良くしていくのか。ひいては、江戸、日本をいかに良くしていくかということを真剣に考えて築き上げてきた行動哲学と言われています。
全国から集まった人たちの中で、棒手振りさん(ぼてふりさん=魚や野菜などを天秤棒で担ぎ,売り声を上げながら売り歩くこと)をしながら、リーダー的な商人の姿を見て、学んでいく者も多くいたそうです。自分のお店をもって、大きくなるにしたがって後継者が必要になるため、その育成という面でも、江戸しぐさが非常に大きな役割を果たしていたということです。
土門:もともと徳川家康が開府したときの江戸は、ほとんどが大きな沼地と低湿地か海だったと言われています。しかし、徳川家康は江戸には海と山があり交通の要所だということで、多くの商人を連れてきました。
商人は何をするのかといえば、モノの売り買いです。売り買いの基本は信用にあるわけですから、日頃からきちんと人付き合いをしながら、信用を積み上げて商売を繁盛させていく。そのための心構えが江戸しぐさであり、「商人しぐさ」や「繁盛しぐさ」と呼ばれました。
私たちは毎日きちんとした挨拶をしているだろうか?
―――現代の私たちはそれをどう活かせばいいのでしょうか。
鶴見:江戸しぐさの基本は人と人との関係を一番大事にすることです。相手を尊重して自分も気持ち良く生きる。お互いにたった一度の人生だから気持ちよく生きていこうじゃないかということです。
なかでも挨拶は江戸しぐさの基本中の基本とされています。挨拶に心がこもるだけで、社内の雰囲気も一変します。江戸しぐさは、上に立つ者のしぐさと言われていますから、社長さんも従業員から挨拶されたら、丁寧な言葉遣いと物腰で相手を尊重して、同じ言葉で「おはようございます」と答えなければならないということです。
土門:江戸しぐさの基本の一つは「惻隠の情」、つまり、相手に対する思いやりです。惻隠の情は、人の上に立つ人の心持ちとして非常に大切で、相手に対する心があれば、自分がどうすればいいのかを考えて、率先して行動できる。
江戸の人たちによって培われた人間関係の知恵が時代を経て次第に忘れられないように、日本人が本来持っていたはずの意識や感性を取り戻すことが今こそ必要だと思っています。
自分の心を強くし前向きに捉える考え方
―――江戸しぐさには、具体的にどのようなものがあるのでしょうか。
土門:例えば、名前も職業もわからずに話をしていて、名刺を渡されてから初めてこんなに偉い人だったのかと態度を変えることがありますが、これは江戸しぐさでは、失礼なことにあたります。裏を返せば、名刺をもらうまでは偉くなかったという話になってしまいますから。
江戸しぐさには「三脱の教え」といって、相手に年齢、地位、職業を聞かない、その人となりを自分の直観力で判断しろという教えがあります。肩書きなどに惑わされるのではなく、信用できるかどうか自分で判断して、仕事の話を始める。
こうしたことを江戸の商人は実践して身に付けてきました。信用調査もない、方言など言葉も違う時代では、本当に信用できるかどうかは自分の感性で判断してきたのだと思います。
そのために、頭の中を豊かにし、教養を身につける。「お心肥やし(おしんこやし)」という言葉で表されますが、それで自分の考えや思いが豊かになれば、自然と行動に出て、しぐさになってくるということなのです。
鶴見:ビジネスマンでも厳しい場面に直面して、心を病んでしまいそうになることがあるかもしれません。江戸しぐさは自分の心を強くするために役立つものでもあると思います。何事もすべて前向きに“陽”に捉える考え方、自己研鑚です。
人生は一度きりなのですから、楽しく生きたい。でも、それは自分だけが楽しければいいということではなくて、「お互いに」ということが大前提です。他人を慮る気持ちがなければ、自分も本当は楽しくないはずです。自分の「お心肥やし」によって心を強く持つことがビジネスの場でも必要なことなのではないでしょうか。
江戸の商人はグローバル・リーダーだった
―――経営者が書いたビジネス書でも同じような指摘をよく見つけます。
土門:江戸しぐさは、西欧社会のノブレス・オブリージュにつながるとも言われています。
もともと江戸しぐさは、商人のリーダーを育てるためのものです。「人の上に立つ者はどういう心根、態度でなければいけないのか」ということでは世界共通だと思うのです。もちろん習慣や文化も違いますが、何かしら共通点があるというのは、江戸しぐさを学び始めたときから感じていることでもあります。
―――江戸しぐさは、リーダーの指南書なのでしょうか。
土門:そう単純に捉えられると少し違うのですが、要は生き方を自分の中で反省し、考えることの1つのヒントになるだろうと私は思っています。口伝で伝えられてきましたのでもちろんマニュアルなどはありません。「江戸しぐさは互助の精神から生まれたとも言われ、共倒れをしない共生の生き方だ」と教えられ、江戸時代の考え方がまさに現代に生きる私たちへのヒントなんだと思いました。
鶴見:江戸しぐさを伝えていると、よくそうしたことを言われるのですが、本当は、自分を振り返り、相手を尊重する気持ちを持てば、お互いに気持ち良く暮らせて、この世の中が少しは良くなるのではないかということなのです。
―――江戸しぐさの「おきゃん(勇み肌で元気な様子)」「傘かしげ(雨の中、狭い道では外側に傘を傾け、笑顔で会釈をしながらすれ違う)」などは言葉がきれいですね。
土門:日本語ってものすごくきれいなものなのです。意味がわかれば、良い言葉って一杯あるんですね。「べらんめい調」とは違って、本町人はもっと丁寧な言葉を使っていたと聞いています。
江戸時代には警察力は町奉行が担当し、自治は町方が担当していました。その役目を本町人が担っていました。そんな本町人たちが率先して実践したのが江戸しぐさなのです。
鶴見:人間関係を円滑にするためには、「目付き」「表情」「ものの言い方」「身のこなし」の4つが非常に大切だと伝えられています。思いやりがあれば自ずと丁寧な表現と応対になるということです。本町人は、地元でのトラブルを未然に防ぐにはどうしたらいいか、トラブルが起こったときにはどんな対処をするかも考えて実践したそうです。
土門:江戸の商人は論理的でムダがありません。チャンス・バイ・チャンス、ケース・バイ・ケースといって、その時々で最も良いことをする。一番ハマることをする。それが江戸っ子の“いき”なのです。そこからはずれてしまうのは野暮なことです。
「尊異論」といって、「自分と違う意見を尊ぶ」という考え方があります。特に「異国付き合い」「一目付き合い」を大切にしていたそうです。違うものは違うから受け入れないのではなく、いかに異なる文化の人たちとコミュニケーションをとっていくのかを大事にしていたのですね。
まさにグローバル感覚ですね。
鶴見:尊異論は江戸しぐさの本質の1つで、「違って当たり前」「違うことは良いこと」という考えでした。例えば、ある丁稚が少数意見を持っていても、番頭はきちんと理由やその裏付けを聞いて、必要なら責任をもって取り入れる。もしそれで商売がうまくいかなくても、決して丁稚のせいにはしなかったと言います。
土門:江戸しぐさが商人から始まった繁盛しぐさだったことを考えていくと、企業をどうやって盛り立てて、継続していくのか。現在に通用する知恵が詰まっている気がします。
「そんなことなら朝飯前!」
では、江戸っ子が朝飯前にしたこととは何か?
―――企業を盛り立てるためには社員間のコミュニケーションが大切ですが、若いビジネスマンには会話や雑談ができないと悩んでいる人もいます。
鶴見:例えば、会話の際に、よく自慢話をする人がいますが、江戸っ子で自慢するのは野暮なことだそうです。とくに商人はむしろ、へりくだる。しかも、へりくだりながらも相手の心持ちを傷つけない上手な言い方をします。相手を尊重し、丁寧な物腰で決して慇懃無礼ではない。思いやりのある丁寧な対応をしたそうです。
今は、スマートフォンやゲームなどで、自分の世界に入ってしまいがちです。自分は楽しい、一緒にやっている相手も楽しいと思っているかもしれませんが、それは周りを遮断していることになるかもしれません。江戸しぐさでは、周りのことを察することができないのは、危機管理ができないため危ないことと言われています。
会話では、「ロクを利かす」と言いますが、第六感、つまり直感力を活かす、ということです。周りを見ていないと、相手が何を考えているのか、想像力をもって対応することができない。コミュニケーションできるようになるためには、まず相手のことを見ることから始まるのではないでしょうか。
土門:例えば、江戸しぐさでよく引用される「傘かしげ」は相手も自分も傘を外側に傾けてすれ違うしぐさですがすれ違う時に目で挨拶するのが大切です。目で相手を見るというのは、こちらには敵意がないと相手に見せることです。お互いが目を見れば、無駄な争いをしなくていいのです。
鶴見:当たり前のことだと思われるかもしれませんが、基本は挨拶なのです。でも、今の世の中では意外に挨拶の意味、効果、重要性があまり認識されていないように感じます。
土門:江戸しぐさには「傍楽(はたらく)」という言葉があって、文字どおり、傍の人を楽にするということです。江戸時代の人はよく「朝飯前」と言っていましたが、朝飯前に身だしなみを整えてからあたりをひと巡りしてどぶ板の壊れや用水桶の水の減少などにすぐに対処します。地域のことを率先してやってしまうのです。
そして朝御飯を食べて、午前中は生活のために働く、要するに生活費を稼ぐ。午後からは、傍を楽にする働き、つまり、ボランティアをするのです。
夕方は、「明日備(あすび)」。明日に備えリフレッシュするために「あそぶ」リフレッシュ、リクリエーションの時間です。人の評価は地位や財産ではなく、午後の「傍を楽にする」働きの多寡で決まる、それが江戸っ子の1日でした。その話を聞いた時に今もビジネスマンが会社の帰りに一杯飲むのは大事なことなのだなと勝手に解釈して、そうすると気も楽になる(笑)。
江戸の町人は、毎日気持ち良く生きるためにどうすればいいのか。そのことに、すごく腐心して知恵を働かせていたのだなと思うと少しでもその知恵に学び次代に伝えていかなければと思います。
(撮影)今祥雄
住所:墨田区横網1-4-1
電話:03-3626-9974(代表)
開館時間 9:30~17:30(土曜日は~19:30)
江戸・東京の歴史や文化、生活を体感できる博物館。
楽しみながら江戸・東京の歴史を学ぶことができる。
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/