下級武士から東京の首長になった男の立志伝 マッカーサー道路を策定した後藤新平の暗闘

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総裁に就任した後藤が、最初に手掛けたことは職員たちの意識改革だった。明治政府が発足してから、東京は何度も大火に襲われている。それだけに、関東大震災でも同じようなやり方で首都を立て直そうという機運が漂っていた。しかし、後藤は破壊された帝都を元に戻す“復旧”ではなく、新たなる帝都へとつくりかえる“復興”であると説き、新しい東京を模索した。

帝都復興院のスタッフは、後藤が以前から目をかけていた内務省・鉄道省のスタッフを中心に集められた。内務省は大蔵省と並ぶ最強官庁として知られるが、鉄道省も土木・建築・工学・都市計画に秀でた我が国最高の技術者集団だった。鉄道省には、後に国鉄総裁に就任し、政治家たちの反対を押し切って東海道新幹線を成し遂げた十河’(そごう)信二もいた。さらに、外部の東京大学からは佐野利器(としかた)教授を招聘。佐野は構造計算の第一人者で、東京駅の耐震設計や明治神宮の造営にも関わったほどの逸材だった。

佐野は日本が地震大国であることを熟知し、構造計算を緻密に行うことを提唱していた。しかし、明治期の建築家は西洋に追いつけ追い越せが至上命題だったことから、耐震性といった機能性よりもデザイン性が重視される風潮にあり、モダンなデザインを生み出せる建築家がスターダムに上がった。佐野の才能は明治では花開かず、大正になって後藤によって日の目を見ることになった。

帝都復興院始動

ほかにも主要メンバーを列挙すれば、副総裁は台湾総督府で後藤の部下として仕え、北海道長官だった宮尾舜治と鉄道院総裁時代の後藤を秘書として支えた松木幹一郎。計画局長は市長時代に助役だった池田宏、技監は後に満洲国で道路局長を務める直木倫太郎など。まさに、オールスターとも呼べるメンバーによって、帝都復興院はスタートする。

優秀な人材によって、帝都復興院は着々と震災復興計画を練り上げていった。もともと、都市の大改造に意欲的だった後藤だけに、帝都復興計画に当時の金額で41億円もの予算を求めた。これには関東大震災で帝都・東京が壊滅しても、ほかの都市に遷都しないという強い意志が含まれていた。

だが、ただでさえ関東大震災で日本経済は混乱していた。政府の財政は火の車。帝都の復興に40億円もの税金を投入することは現実的に不可能だった。政府は帝都復興計画を修正するように指示。政府と帝都復興院との協議の末、復興予算は10億円にまで縮減された。

4分の1にまで予算が減らされるとなると、理想の都市計画は実行できない。そこで後藤は帝都復興計画を2つのテーマに絞る。一つは大小の公園をつくること、もう一つが幅員の大きな道路をつくることだった。

関東大震災は家屋の倒壊による被害が甚大だったが、なによりも被害を大きくしたのは地震後に発生した火事だった。震災によって起きた火事は、東京を焼き尽くしたが、日比谷公園と外濠が防火帯となり、火事の拡大を防いだ。公園が延焼遮断帯になることを確信した後藤は、地域ごとに小さな公園をつくり、拠点となる大きな公園の整備も計画に盛り込んだ。

大公園とは日比谷公園のようなもので、家族で一日憩えるような公園を指す。小公園は近所の子供が集まり、毎日遊べるような公園を指した。そのため、小公園は小学校の学区単位で設置され、小学校に隣接するように設置された。そんな経緯から、小公園は復興公園とも呼ばれる。

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