住友のルーツには、「企業経営の本質」がある 広瀬と伊庭が明治初期に思い描いた百年の計

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ただ、広瀬宰平が違っていたのは、ラロックに計画書の作成は頼んだが、その実行は頼まなかったことだ。その代わり、技術者をフランスに留学させた。日本人の手で実施しようとしたのだ。将来を背負う人材を作ることがいちばん重要だと考えた。留学した技術者は帰国後、別子銅山の改革に力を発揮する。それを支えたのが2代目の総理事の伊庭貞剛である。

経営者の変更で変化が生まれた、公害への取り組み

広瀬から伊庭への経営者の変更、ここで劇的に変わったのが、公害への取り組みである。将来は解決するということは、それを先送りするということではなく、すぐに取り掛かることである。工場の移転を断行し、根本解決を図る決心をする。そして荒れた山には考えられない規模の植林を行った。これが後に新しい事業の立ち上げに繋がっていく。住友林業の創設だ。

だがこれでも公害は解決しなかった。世界の技術が追いつくには昭和に入るまで時間がかかった。だが、それは住友の技術を世界に追いつかせる研究でもあった。亜硫酸ガスの脱硫と中和への研究は住友化学に繋がっていく。

広瀬宰平から伊庭貞剛への経営者の移行は激しい葛藤を生んだ。それぞれが思い浮かべる100年先が違った。だが、その意見を戦わせることが経営の近代化に繋がっていった。住友がおこなった改革はある意味、経営と資本との分離と評価する人がいる。

江戸時代に営々と築いてきた鉱山経営の実態を住友家は広瀬宰平に託した。それがゆえに利益よりも経営理念が必要とされ、100年先という言葉で語り継がれ、企業理念が作り続けられた。

瀬戸内海に面する愛媛県新居浜市を見下ろす別子銅山。標高750メートルの中腹にある東平(とうなる)の選鉱遺跡は、「天空の歴史遺産」「東洋のマチュピチュ」などとショウされる優美な名所となっている。さらに標高1200メートルの峠を越えたかつての鉱山町は、かつては一面が禿げ山になっていた。今は豊かな森林が広がり、過去に荒れた面影はなくなっている。今、別子銅山は閉山してしまったが、1000メートルを超える山々から山麓まで、当時の遺構が数多く残されている。その姿は明治期の日本人の葛藤を記録する貴重な遺産といえる。

広瀬から伊庭へ渡った経営のバトン。これは単なる世代交代ではなかった。大げさに言えば100年遅れて近代経営に参加した日本のその後の路線を決めるものでもあった。「企業はいったい誰のものなのか」「経営の持続性とは何なのか」などという、時代によってそのカタチを変えながらも本質はずっと変わらない、今の企業経営者やビジネスパーソンにとっても参考になる普遍的なテーマである。

TBSテレビ『百年の計、我にあり』取材班
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