これは江戸時代初期の明暦2年(1656)に刊行された『武者物語』(名将談・武器故実・首実検法などを内容とする書物)などに収載された逸話であり、氏政はこの「汁かけ飯」の逸話で有名なのです。
また『甲陽軍鑑』(江戸時代初期に成立した軍書であり、甲斐国の戦国大名・武田信玄・勝頼父子の事績や合戦などを記述したもの)にも、氏政は麦飯の作り方も知らない大身のぼんぼん(良家の息子)として信玄に侮られる描写があります。
氏政をほめる記述も
こうした書物の氏政評価は、現代にまで受け継がれていると言えそうですが、江戸時代初期の書物がすべて氏政を貶めていたわけではありません。
例えば江戸時代初期に刊行された『北条五代記』(北条氏に仕えた三浦浄心の著作。北条氏に関する軍記物)ではまず、氏政は合戦において槍を取り、真っ先に進み「猛威」を振るう武勇の武将と記述されています。
また「氏政は文武の達人、ことには常に和語(和歌)をこのましめ給ふ」(氏政は文武の達人で常に和歌を好んだ)との評価もあります。
「希代の名大将」であり、民を慈しみ、「国の政道」も正しく、関東の諸侍も氏政に忠誠を尽くしたとして『北条五代記』は氏政を絶賛しているのです。
北条氏の旧臣の著作であることから、氏政を絶賛していると思われるかもしれませんが、あの徳川家康も「佞人之氏政」(口先が上手で、心のよこしまな氏政)、「小田原之者謀略不始于今儀」(小田原の謀略は今に始まったことではない)と記すなど、氏政を一筋縄ではいかない人物として警戒していました。
氏政は敵対する国人衆を計略や和睦でもって取り込んでいきましたが、そうした氏政の姿勢が油断ならぬ人物との家康の評価を招いたのでしょう
「佞人」との評は当時も今でも良い意味ではありませんが、戦国乱世にあっては誉め言葉と考えていいのではと思います。
実際、氏政の時代には北条氏の領国は相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野国から常陸・下野・駿河国の一部にまで及び「最大版図」を築いています。


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