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「10時10分前はいつなのか」SNSの小さな論争に潜む、誰もが「まちがえた」と言えない日本の構造

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叩かれる人
間違いを認めるとかえって叩かれるのはなぜでしょうか?(写真:mits/PIXTA)
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與那覇:コロナは世界の主要国に「同じ問題が押し寄せて、その反応を見る」という、巨大な社会実験でした。改めてわかった欧米と日本の違いは、「明文化された基準」の有無ですよね。欧米は法的にロックダウンの条件を定めて、発動や解除に基準を設ける。日本はあくまで「自粛のお願い」だから、結局は世論の空気任せで、いつまで制限が続くかが決まる。

どちらも一長一短があり、基準を作ればかえってそれに縛られ、空気任せだからこそ柔軟に対応できる可能性もありました。しかし終わってみれば、欧米より遥かに軽微な被害にもかかわらず、日本人だけが最後までマスクを外せなかった。明文のルールが存在しないために、いまだに外せない職場すらあります。

舟津:ルールを明示的に設けるかどうかには文化差もあって、どちらが絶対に正しいとは言えないと思います。ただ、コンプライアンスにおいて決定的に重要なのは、ルールが通用しなくなったときにどうするか、なんです。5年前は正しかったけど、今は正しくないから変えましょう、という態度があるかどうか。かつて官僚と企業で綿密に重ねていたルールに関する会話は、90年代を境になくなっていったといいます。大蔵省の接待汚職事件のころですね。官僚と業者が話し合うことは癒着なんだ、と。

ある研究では、新自由主義と結びついて自己責任論に変わっていったとも説明されます。そもそものルールについて話し合うことは放棄されて、守らない人には自己責任で罰がありますよ、とだけ伝えられる。ルールを明示的に作らず、変えることについて話し合いもせず、自己責任だけになっていった。コロナのケースは、これでほぼ説明がつきます。空気読んでね、わかってるよね、自分の責任は自分で取ってね、と。

與那覇:確かに昭和には、ルールがないなりの寛容さもありました。聖人君子じゃない以上、誰だってやらかしはあるだろ、みたいな。本来はそこから、さすがにハラスメントにあたる「やらかし」はなくせるように、きちんとルールを作りましょうという方向に行くはずでした。

しかし平成に起きたのは、相変わらずルールは不明で曖昧なまま、とにかく「違反した」とされた人を見せしめ的に叩き、共感の余地を残さず村八分にするプロセスだったんですね。令和のSNSで吹き荒れる「他罰感情の暴走」は、まさにその帰結です。

「子どもを叱れない親たち」の暴走

與那覇:そうなってしまった理由ですが、『平成史』で描いた世代の問題が大きいと思うのです。平成の初期にあたる1990年代は、70年安保で大学紛争を戦った団塊の世代の子どもである、「団塊ジュニア」が大学生になる時代。かつて全共闘で教授に反抗し、家父長的な権威の解体を唱えた当人が、「大学生の親」になってしまった。

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