與那覇:最近、ある文芸誌でそうした論争が起きて、争う両者はどちらもその雑誌で連載している方です。だから次の号に反論を載せるなり、対談の形で会って議論しましょうと提案すれば、できるはずなんですよ。
ところが批判された側が、「恥を知れ」の4文字だけを強調してSNSで拡散し、仲間を集めて数の力でやり返そうとする。学者どうしなら「知的な議論ができるはず」という幻想はすっかり壊されて、もはや内弁慶ならぬSNS弁慶のチンピラと変わりません。
舟津:誌上で論争するのは、すごく伝統的な学者のやり方で、正しい方法だと思うんです。気に入らないことがあるなら、テキストの形で、ちゃんとした媒体の上でやり合いましょうよ、という前提があった。文献の読み方や解釈を問われているなら、中身で返せばいい。ところがそこで、言い方がきついという話題にすり替わってしまう。まさにトーンポリシングです。
別の場面では言い方を理由に主張を退けてはいけない、と言いつつ、自分がやられた瞬間に「こんなひどいことを言われました。言い方がひどいんだから、中身もきっとひどいんです」となってしまう。研究者や専門家という自覚がある人は、本来ならプライドにかけて、SNS上で議論を展開するようなことはしなかったはずなんですよね。
ルールは曖昧なまま、処罰だけが重くなる
舟津:日本はもともとハイコンテクスト、つまり当たり前が共有されていることを前提にした社会だといわれています。2010年代後半から、その当たり前が揺らぐ中で、わかるように丁寧に教えろ、説明責任を果たせ、というフレーズがすごく強くなった。それ自体はまっとうなところもあるので、じゃあ明文化したルールとして共有していきましょう、というのがコンプライアンスの流れだったはずなんです。ところがポリコレ的なコンプライアンスと合流すると、ハイコンテクストなところを残したまま、摘発だけを進めようとする。しかも重罰を課して。ちゃんと説明はしないけど、逆らった者には重い罰を、という日本型のゼロトレランスです。
何をしたら一発退場になるのかわからないから、気をつける人ほど萎縮していく。常識のある人ほど本来は許容されるような自分の行いを自粛していくという、皮肉なことが起きてしまう。コロナ禍も近くて、何をすればいいのかは明文化・明示化されなかった。「自粛」という言葉で乗り切ったのは、ある意味で日本的なすごさだとすら思いますけど。


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