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「10時10分前はいつなのか」SNSの小さな論争に潜む、誰もが「まちがえた」と言えない日本の構造

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叩かれる人
間違いを認めるとかえって叩かれるのはなぜでしょうか?(写真:mits/PIXTA)
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與那覇:社会という単位では、いまは自明性が喪失してゆく時代です。長らく「こんなもんだよね」として続いた慣行に、「それはハラスメントでは?」とクレームが寄せられ、実際にその通りだということであり方が変わってゆく。昭和の飲みの席なら女性が男性にお酌するのが「自明」でも、さすがにそれはもう通りません。

コンプライアンスやハラスメント対策が強調されるのは、自明性が揺らいでいるからこそ「このルールだけは守りましょう」という趣旨ですよね。ところが近年はっきりしたのは、既存の自明性に異議申し立てをする際、「私の中ではこっちが自明だ!」と思い込む独善的な人ほど、声が大きくなるということ。彼らが評判をどんどん落とすせいで、コンプラという用語まで悪口になってしまいました。

本来の「闘争」をごまかす人たち

舟津:難しいのは、自明性に疑問を持ちましょうという活動自体は、ジェンダーやマイノリティに関するまっとうな歴史がちゃんとあるんですよね。自明とされてきたことは良いことではないかもしれない、もう少し疑った方がいい、と。それ自体は正しいとしか言えない。

じゃあ、そういう正当な疑問視と、自分の中では自明だ、と言って勝負しに来る人とは何が違うのか。最終的には、幅広く議論されて、集合的に話し合って同意されているかどうかが基準だと思うんです。本書の終盤で、昔はテレビで流れたことがお茶の間の会話になっていた、というくだりがありましたよね。「これっておかしいよね」「いや、そうは思わない」というやり取りがあった。SNSはそういう過程を経ず、全部が個人の世界になってしまう。でも、社会の自明さを揺るがせるのは、個人の内心ではありえないんですよね。一人が「私はこう思う」と言うだけではダメで、それを認めさせる闘争としての過程が要る。僕も『コンプラ過剰社会』で参照した論文に、ポリティカル・コレクトネスの歴史は闘争であって、最初から喧嘩腰な部分がある、と書かれていて。ここまではっきり言われているのかと思いました。

與那覇:「いまの慣習を全否定したいから、喧嘩腰で行くぞ!」と明言する人はまだ誠実なのです。欺瞞がひどいのは、自分は対話重視で、バラバラな世界の誰をも尊重しますと言いながら、えこひいきをする人たちなんですよ。

社会で勢いがあった時期には、彼らは「感情的な非難はよくない」という指摘に対して、それはトーンポリシングだ、むしろここまで怒らざるを得ないほどの事情を理解せよと言っていました。しかし自分たちが劣勢になると、たかだか「恥を知れ」と言われたくらいで、言葉が強すぎです、私はハラスメントされましたと同情を惹こうとする。

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