開発を担ったのは、クラレグループの旧クラレ不動産。施工を担当した大林組の社史『大林組八十年史』によると、1967年2月に造成工事が始まり、1970年には住民の入居も始まった。
その後、開発はさらに拡大。山の急斜面を造成し、約5000世帯、人口約2万人が暮らす街を建設する計画が進められた。ただし、山をすべて住宅地に変えるのではなく、約220ヘクタールの計画用地のうち約32ヘクタールを山林や原野として残し、学校や公園、道路などの用地も確保する設計だった。
1973年発行の建設技術専門誌『建設の機械化』によると、造成工事の計画土工量は約840万立方メートル、総工事費は約230億円。規模は壮大だったが、着工から6年足らずの1972年末には、計画土工量の8割を超える約700万立方メートルの土工が完了していたという。
急斜面での造成に伴う土砂災害を防ぐため、河川改修や洪水調節ダムの建設などの防災工事を先行。航空測量と電子計算機を組み合わせた施工管理技術も導入し、約40万立方メートルの切土量削減と2カ月の工期短縮を実現した。
1985年に宝塚市が策定した『都市景観基本計画』では、中山台の基本目標として「山なみの緑を背景として、親しみが感じられ、わかりやすい住宅地を育てる」と掲げている。
当時すでに、戸建て住宅と中高層住宅が整然と並び、地区の入り口には1978年に開業した商業拠点「中山台ファミリーセンター」も設けられていた。コープこうべをはじめ、食料品や日用品だけでなく、衣料品を扱う店も並び、日常の買い物から暮らしの楽しみまで、街の中で満たせる生活環境が整えられていた。
街の変化は航空写真からも確認できる。1975年には道路や宅地の区画が整えられていたものの、まだ空き区画が目立つ。一方、1995年にはその多くが住宅で埋まり、現在につながる街並みがほぼ出来上がっている。
人口も増え、宝塚市が地区別に確認できる統計では、同年に約1万6000人とピークを迎えた。
造成開始から約30年。中山台は、多くの子育て世帯が暮らすニュータウンとして成熟期を迎えていた。しかし、同じ時期に移り住んだ世代が多かったことが、数十年後、この街に大きな課題をもたらすことになる。
人口は26%減、高齢者は2倍以上に
中山台の変化を象徴するのが、人口と年齢構成の推移だ。


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