鳥好きの大名たちは、海外の珍しい鳥を競うように取り寄せた。なかでも知られるのが、水戸藩主の徳川光圀である。光圀は、クジャクやオウム、インコ、キンケイ(金鶏)といった異国の鳥を飼い、ヒツジやロバ、ジャコウネコとみられる「霊猫」まで手元に置いていたという(『桃源遺事』)。
文鳥も、そうした舶来の鳥の一つだった。将軍家お抱えの絵師・狩野常信の筆と伝わる『鳥写生図巻』(東京国立博物館蔵)には、宝永7(1710)年に江戸城で飼われていた文鳥を写生した図が収められている。
カナリアは当初オスばかりが渡来していたが、天明年間(1781〜89)にオランダ人がつがいで持ち込み、長崎・出島で子を育てることに成功する。これをきっかけに、国内でも繁殖が盛んになっていく。
一方で、庶民の間で人気を集めたのは、ウグイスやメジロ、ウズラといった鳴き声を楽しむ鳥たちだった。鳴き声の優劣を競う「鳴き合わせ」も盛んに行われ、相撲の番付のように順位がつけられた。勝ち抜いたウズラやその子孫は、高値で取引されたという。
そんな小鳥を愛でる文化は、明治に入っても途切れることはなかった。とりわけ盛んになったのが文鳥の繁殖である。愛知県の弥富では、明治の初めに全身が真っ白な「白文鳥」が生まれたと伝わる。弥富はやがて文鳥、とりわけ白文鳥の産地として知られるようになり、その愛らしい姿は全国へと広まっていった。
籠の中でさえずる小鳥は、明治の家庭にとって身近な「家族」の一員だったのである。
夏目漱石が書いた『文鳥』
明治の小鳥文化を語るうえで欠かせないのが、夏目漱石の『文鳥』だろう。明治41(1908)年に『大阪朝日新聞』に掲載された短い作品で、漱石が実際に文鳥を飼った体験がもとになっている。
作中の「自分」は、門下生の鈴木三重吉に勧められるまま、文鳥を飼い始める。籠を書斎のそばに置き、白くかぼそい姿や、餌をついばむ愛らしい仕草に目を細める。その姿に、かつて知っていた女性の面影を重ねる場面もある。
ところが、仕事に追われるうちに、世話はだんだんおろそかになっていく。ある日、籠をのぞくと、餌壺には粟の殻ばかりが残り、文鳥は籠の底で息絶えていた。「自分」は年若い女中を呼びつけて責め、三重吉にも、家の者が餌をやらなかったせいだとはがきを送る。


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