だが、三重吉からの返事は「文鳥がかわいそうなことをした」とあるだけだった。その素っ気ない一行には、どこか苦い後味が残る。
実際の漱石も、小鳥好きの三重吉に勧められて文鳥を飼い始めた。もともと小鳥好きではなく、生涯で飼った鳥はこの文鳥だけだったという。
その文鳥は、漱石が所用で2日ほど朝から出かけていた間に死んでしまった。次男の夏目伸六は随筆で、その場に居合わせた長女から聞いた話として、籠の前で文鳥を眺める漱石の目に涙が光っていたと書き残している。
小さな命を預かる喜びと責任、そして後悔。漱石の『文鳥』は、明治の知識人の家庭にも、小鳥が当たり前のようにいたことを伝えてくれる。
太宰が揶揄した川端の「小鳥飼い」
時代は下って昭和。小鳥をめぐって、文壇にちょっとした騒動が起きた。主役は、川端康成と太宰治である。
川端は大の動物好きで、小鳥や犬を数多く飼っていた。昭和8(1933)年には、小鳥や犬を飼う孤独な男を描いた短編『禽獣』を発表している。
昭和10(1935)年、第1回芥川賞の選考が行われた。候補作には、太宰治の「逆行」も挙げられた。
学生時代から芥川龍之介を尊敬していた太宰。芥川の名を冠した文学賞は何としてでもほしかった。だが、結果はあえなく落選。
選考委員の川端は「私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて」と太宰の落選理由を書いた(『文藝春秋』昭和10年9月号)。当時、太宰は自殺未遂事件を起こしたうえ、さらに入院中に使った鎮痛剤パビナールの中毒にも陥っており、それを川端は暗に示唆したとみられている。
激怒した太宰は「川端康成へ」と題して、『文藝通信』にこんな抗議文を発表した。
「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」
さらに太宰は「刺す。そうも思った。大悪党だと思った」とまで書いた。小鳥や踊り子を愛でる川端の暮らしぶりを、皮肉たっぷりに当てこすったのである。
川端は翌月、同じ『文藝通信』に「太宰治氏へ芥川賞に就て」を寄せた。選考会では「蒼氓」に票が集中し議論の余地はなかったと経緯を説明。「厭な雲」の一言が暴言だというなら取り消すと応じている。


※ログイン後、コメント入力が可能です。