だが、サン・フェルミン祭をはじめとする各地の祭りは、もともと「日常の秩序や権力をひっくり返す」というカーニバル的な性質を持っている。地元民や参加者にとって、政府による規制や抑圧は「自分たちのアイデンティティや自由に対する侵害」と受け止められることになる。そのため、あえて混乱や危険(牛の暴走)を維持することで対抗するという、民衆の強い抵抗のエネルギーがそこに生まれる状況になっている。
もちろん、ダグラスも述べている通り、これは「国家vs民衆」という単純なせめぎ合いに終わるものではない。むしろ、権力からコントロールされそうになるからこそ、祭りの熱狂がより鋭く、政治的な意味を持ち始めている実態がある。最近の新しい緊張関係そのものが、アイデンティティの形成に一役買っているというのだ。
生と死のリアリティと遭遇した際に生じる拒絶反応
だんじり祭りをめぐってSNS上で巻き起こる賛否の嵐は、人類史上最も平和で安全な生活を手に入れた代償として、「生の手触り」を失いつつある現代人が、「生と死のリアリティを剥き出しで保持する領域」と遭遇した際に生じる、実存的な困惑と拒絶反応を分かりやすい形で示していると言えるかもしれない。
だんじり祭りをはじめとする危険を伴う祝祭と現代社会との間に生じる軋轢は、単なる「安全意識の欠如vs伝統保護」という議論の枠組みには収まらない。これは、リスクの予測と管理を至上命令とする現代社会の基本設定と、生と死の境界を揺さぶる祝祭の「法外性(カイヨワのいう「法規と化した脱法規」)」との根本的なズレを示す、あまりにも皮肉な現象なのだ。
他方で、この「法外性」が完全には維持できなくなってきているのも事実である。事故のたびに「なぜやめない」という周囲からの圧力が強まり、祭りの側も技術的な修正や行動面での抑制など「日常の論理」を部分的に取り入れざるを得なくなっている。だが、そのせめぎ合い自体が、現代に息づくある種の「祭りの原初形態」を映し出しているのもまた事実なのだ。
現代社会は、個人の生存や安全確保を絶対的な善とする規範で動いている。けれども、祝祭空間の内部では、神聖な秩序や共同体の存続という「超越的な意味付け」が、一時的に前述の規範を無効化することが起こりうる。
このような認識を抜きにした表層的な見方だけでは、現在のわたしたちが抱えている衝動やニーズに潜む、多くの社会課題に対する繊細さをも欠いてしまうことになるだろう。



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