だからこそ、「死んだら無である」と言い切る一方で、人間が生み出してきた「フィクション」が、人を救うことも否定しない。
そして「家内はもう無です」と言い切った阿刀田さんにも、自分では答えを出せない問いがあった。
「お母さんは幸福だったのかな」
慶子さんが亡くなって1年ほどたったころ、阿刀田さんは3人の子どもたちと食事をした。その席で、こんなことを尋ねたという。
「『お母さんは幸福だったのかな』と聞きました。すると3人とも、『幸福だったんじゃないの』と言ってくれた。私自身の物差しでは、家内が幸福だったかどうかを、的確には判断できません。いろいろありましたし、小説家の妻は、なかなかきつい立場でもありますから」
30歳で結婚してから、およそ60年。それほど長い時間をともに過ごしても、妻の人生が幸福だったかどうかを、夫である自分には判断できないのだという。長く連れ添った相手とはいえ、相手のすべてがわかるわけではない。
その「わからなさ」について考えていると、取材の終盤に阿刀田さんが語った、男女の違いについての話が思い出された。
「子どもという存在についての向き合い方も、男性と女性では違います。男性にとって『この子は自分の子だ』というのは、頭で認識したこと。生殖行為があり、こうして育って、『これはあなたの子です』と言われて頭で納得する。しかし女性にとっては、自分の体から出てきた存在です。男性が子どもを『自分の子』と捉えることとは決定的に違う。
あまり言われませんが、当たり前でありながら大きなことかもしれません。私は3人の子どもがいますが、『自分の子だ』というのはすべて知識として知ったことです」
男と女では、子どもという存在の捉え方さえ違う――。そんなふたりが夫婦になり、長い時間をともに生きた。とはいえ最後まで、ふたりの間には「わからなさ」が横たわっている。
夫婦としての時間を終えたあと、阿刀田さんの中には「お母さんは幸福だったのかな」という問いが残った。そして、その問いに3人の子どもたちは「幸福だったんじゃないの」と答えた。
「一番家内のそばにいた子どもたちの目から見てそうならよかったと、少し安心しました」
そう話す阿刀田さんの目は、虚空を見つめていた。それは答えのない問いに、自分なりの物語を組み立てているようにも見えた。
(後編へ続きます)



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