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「寛容なリベラル」は本当に存在するのか 伝統的な共同体を破壊し、大衆を切り捨てた「エリート層の冷酷な偽善」

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能力主義
能力主義は成功者に傲慢さを与え、敗者に深い屈辱感を植え付けた(写真:mybears/PIXTA)

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リベラリズムは自らを「人間の解放者」と位置づけてきたが、その実態は伝統的な家族や地域共同体という「防護柵」の解体だった。その不条理な構造とリベラリズムの終焉を『リベラリズムからの体制転換――ポストリベラルと共通善保守主義』著者で、政治哲学者のパトリック・J・デニーン氏が鋭く暴く。

近代自由概念の誤謬と「防護柵」の撤去

リベラリズムはみずからを滅ぼす種子をその内側に最初から孕んでいた。

『リベラリズムからの体制転換: ポストリベラルと共通善保守主義』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします。紙版はこちら、電子版はこちら。楽天サイトの紙版はこちら、電子版はこちら)

現代の西洋諸国が直面している深刻な政治的混迷や文化の崩壊は、リベラリズムの「失敗」によるものではなく、むしろリベラリズムがその理念を「究極まで実現した結果」生じたものである。

近代以前の西洋政治思想において、「自由(liberty)」とは、野放図な欲求や自己中心的な欲望に従うこと(ライセンス)を意味しなかった。

古代ギリシャのプラトンやアリストテレス、そして聖書的神学の伝統において、真の自由とは「自律・自制・自治」の能力を獲得することであった。人間が野心や欲望の奴隷になるのを防ぎ、徳(ヴィルトゥ)を養うためには、家族、地域社会、教会、伝統、慣習といった社会的枠組みが不可欠とされていたのだ。

これらの非公式な社会的機関は、人間の暴走を防ぐと同時に、弱者や一般市民を野心家の貪欲さや権力者の搾取から守る「防護柵(guardrails)」として機能していた。

しかし、近代リベラリズムの登場によって、この「自由」の意味は180度転換される。

リベラリズムは、過去から受け継がれた一切の伝統、慣習、宗教的規範、共同体の制約を「個人の自己実現を阻害する不当な抑圧」とみなした。

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