健全な言論が機能しない閉鎖空間で承認を求めた結果、自らの言葉が持つ暴力性や、差別言説としての社会的影響力に対する客観的な想像力を減退させる方向に作用してしまうのだ。一方で、内部の同調性を強め、連帯感を高める役割も果たす。
すなわち、Xという数百万人にひらかれた極めて公的な広場において、「身内(同調者)ならこの端折った文脈や皮肉を解釈してくれるだろう」という甘えが存在したことになる。これは、エコーチェンバー特有の認識のズレといえる。
一般的に、タイムラインに表示される「遺伝的要因のおそろしさ」という差別的なポエムを、「自らと遺伝子を共有する血縁者を優遇しようとする麻生太郎氏の行為の問題点」を意味したものとして、ほとんどの人は受け取らないからである。
真の意図がどうであれ「職業倫理の怠慢」である
そして、専門家が公の場で用いる言葉の重みを忘れ、差別や優生思想の文脈として受容される危険性を予見できなかった(あるいは意に介さなかった)とすれば、それはもはやうっかりミスではなく、専門家としての「職業倫理の怠慢」とみなされてしまうだろう。
仮に「長文解説に書かれた意図が最初から存在していた」という本人側の主張を全面的に認めたとしても、それは免罪符になるどころか、むしろ「コミュニケーションの方法の致命的な失敗」を自ら証明してしまいかねない。
要するに、「差別心から言ったのではない(長文解説が正しい)」と強弁すればするほど、「それほどまでに配慮を欠き、麻痺した状態で公的な発言をしていた」という側面を自ら露呈する結果を招いてしまうのである。
このように、後者の「長文解説通りの意図だった」が真だったとしても、依然として問題が残ることに変わりはない。これは、決して特殊な事例ではない。SNSの生態系において、人々が自らの言動を作り変えることが日常茶飯事になっているからだ。
それは党派性の深化から表現の拙速化まで枚挙に暇がない。だが、そこにこそ自爆を誘う心理的陥穽が生まれ、SNSの毒によって生の人間性が暴かれ得ることに、わたしたちはもっと自覚的であるべきだろう。



※ログイン後、コメント入力が可能です。