それ以降、何も言われなかった。激昂も泣き崩れもなかった。小学生のときに「自衛する」と宣言した父親は、高校生の息子に対して、静かに、ただ静かに、物理的な対策と口止めだけを実行した。
あの「自衛宣言」は、気まぐれではなかったのだ、とAさんは気づく。両親はあの日以来、一貫して、息子の問題行動を感情ではなく制度で処理する方針を取り続けていた。それが冷たさなのか、成熟なのか、諦めなのか。その区別は、いまも彼の中でついていない。
クレカ窃盗の慶應生「自分と同じにおいを感じる」
その後、Aさんは現役で東京大学経済学部に合格した。
「一歩間違えれば、ああなっていた」
現在のAさんは、盗みを一切やっていない。他人の財布から盗もうと思ったことも一度もない。
そもそもずっと一貫して、狙いは常に親の財布だけだった。だが彼は、自分の過去を安全圏から眺めてはいない。
「最近、慶應の人のクレジットカード事件とかを見ていると、怖くはなるんです。一歩間違えれば、ああなってたんじゃないかと。自分と同じにおいを感じるな、と」
最近こんな事件が世間を騒がせている。慶應義塾大学に通う4年の女子学生が、アルバイト先のスポーツ施設で客のクレジットカードを盗み、不正に使用したとして逮捕された。サインや暗証番号なしで決済できる1万円以下の買い物が繰り返されたとみられ、使い込みの総額は100万円に上る疑いも報じられた。
名門大学の4年生。卒業を目前にした、恵まれた立場の人間が、なぜ客の財布に手を伸ばしたのか。SNSでは「動機が分からない」「もったいない」との声が溢れたが、Aさんは違う見方をする。分からないのではない。分かるから、怖いのだ。


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