⑥再開発で街の賑わいが移っただけ
だが同時に、大町周辺には暗雲が立ち込めていた。駅前が大きな賑わいを生んでいた一方で、もともと中合があった大町は衰退の一途をたどっていた。
1984年、大町パルク(中合が駅前へ移った後、その跡地で営業していた中合経営の商業施設)が閉店する。駅前への移転から、およそ10年後のことだ。
ただし、大町が何もせず衰退を受け入れていたわけではない。1977年、市は大町のレンガ通りを「ファッショナブルな街」にする都心部まちづくり計画を掲げていた。
だが1984年の業界誌は、この構想を「絵に描いた餅」に終わったと記している。その後も商業の色は薄れていき、大町には金融機関ばかりが集まるようになった。その様子を「土日はシャッター通り」と表現している(『財界ふくしま』1984年11月号)。
さらに1989年には、福島市の都市開発部長が業界誌への寄稿で、「市の駅前再開発は地元百貨店の駅前移転をはじめとして、商業・業務機能を駅前に集中させた」と振り返っている(『再開発コーディネーター』1989年9月号)。
その結果、かつての中心商業地の地盤沈下という地域的なアンバランスを残す形になった、という趣旨だ。市自身も、新しい中心を駅前につくった一方で、従来の中心市街地が衰退したことを認識していたのである。
移転は、街を大きくするための投資だった。だが実際に起きたのは、街全体の商業規模が大きくなるのではなく、その重心が移ったことだった。箱は新しくなったが、それを支える力は増えていなかった。
本連載には、商業規模を拡大させるため、起爆剤として百貨店が作られた街が数多く登場する。しかし、どの街も成功したとは言い難い。ビジネスにおいて、箱より大事なのは集客であり、「そこに人がいるか」なのだ。
しかも、街の新たな中心を担った百貨店も、決して盤石ではなかった。表からは見えないところで、3つの店はそれぞれ別の問題を抱えていたのである。
次回は、駅前の賑わいを支えた百貨店の内側で、何が起きていたのかを追う。


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