「日本兵はみな同じ背丈、同じ体格だった。まるでクローンのようでした」
そう語るのは97歳のヒケムウェザさん。当時は幼い少年だった。
村人たちは当初、日本兵に好意的だったという。英印軍支配への反発もあり、同じアジア人である小柄な日本人に民族的な親近感を抱いていた。
日本兵の世話は、同じ村に暮らすナガ族の青年が担っていた。通訳や交渉、道案内まで引き受けていた彼は、日本兵たちから「シンチョー」と呼ばれていたという。
その言葉を聞いたとき、私はある記憶を思い出した。
2019年、ミャンマー側からインパール作戦のルートをたどっていたときのことだ。第33師団(通称・弓兵団)が通過したカレーミョ近郊の村で出会った老女が、こんな話をしてくれた。
若いころ、彼女は1人の日本兵に淡い想いを寄せていたという。その兵士は仲間内で「キムラ・シンチョー」と呼ばれていた。
場所はインドとミャンマーの国境をまたいで遠く離れ、しかも所属する部隊も異なる。それにもかかわらず、「シンチョー」という同じ呼び名が使われていた――。
単なる偶然とは思えなかった。
「シンチョー」は何を意味するのか?
「シンチョー」が何を意味するのかは、はっきりしない。名前なのか、役割を示す呼称なのか、あるいは「船長(せんちょう)」のような日本語が変化したものなのか。確かなことはわからない。
それでも、80年以上前、遠く離れた戦場のあちこちで、日本兵たちが同じ言葉を交わしていた可能性がある。そう思うと、断片的な証言が、ひとつの線でつながるような感覚があった。大げさかもしれないが、異国の地に残された小さな言葉が、当時を生きた人々の輪郭を、わずかに浮かび上がらせているようだった。
初めは友好的だったが、ジェサミ村の人が日本人に抱く感情は徐々に変わった。
旧日本軍は食糧を徴発した。村人は自分たちが食べる分しか持たない。コメを山中に隠したが、日本兵はそれを探し出して持ち去った。
当時の日本軍は約5000人規模でこの地域を行軍していたと推定される。小さな山村でその人数を賄うことは物理的に不可能だった。英印軍が退却時に残していったパンやチーズなどの食糧もあったが、とてもではなく足りなかったようだ。
「英印軍は村人を助けることもなく村を焼き払い、逃げていきました。日本軍は私たちから食糧を持ち去った。それでも私たちはジャングルで生き延びる術を知っていた。だから、なんとか生きながらえることができたのです」
そう語ったあと、彼は少し間を置いて続けた。
「でも、兵士たちは違った。彼らは闘いに明け暮れてそのまま死んでいった」
ヒケムさんが話しているあいだ、彼の腕に一匹の羽アリが止まった。しばらくじっとしていたが、やがてふっと飛び立っていった。

